【こいつが出てくると】大島丈19【全てが台無し!】 [無断転載禁止]©bbspink.com
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>>581
一ヶ月前の
>>322にも書かれていますね。
私にはこの解釈がどうしても肯んぜられません。
一ヶ月前にも書きましたとおり
社会での成功、幸せと
人生での成功、幸せを
混ぜこぜにして論じてしまっているため
真理から遠ざかってしまっているのです。
大島丈は社会での成功を幸せととる儚い生き方ではなく
人生を輝かすことで幸せになる生き方を選択しているということを
まずは理解しないと真理は見えてきません。
生活を満たすことのみに終始する人生では心は満たされません。
どんどんと人生は虚しいものとなってきます。
時代により移ろう価値観に惑わされることなく、
人間としての美しい生き方を大島丈は追求して生きているのです。
具体的に換言すれば、神の普遍的な愛に包まれることが、全ての魂の救済につながるのだという信念の基に
彼の生き方は構成されています。
もう少し詳しく説明したのが>>323の寄稿となります。
あらゆる迫害を受けようとも、真理を伝えていかなければなりません。
再掲載しますので、どうか美しい生き方とは何か?大島丈の生き方とは何か?をご理解ください。 (1)
考えてみてください。
イエスキリストは徳が高くなかったから殺されたのでしょうか?
この世の中には2つの「成功」があります。
現代の資本主義競争社会で「ただひたすらにマウントをとることで成功」と考える生き方。
これを仮初めに「社会的成功者」とでも名付けておきましょう。
そしてもうひとつが、その対極にある「人生の成功者」なのです。
イエス様やお釈迦様や大島丈が説かれているのは、実にこの「人生の成功者」のことであります。
少し思い返してみてください。
天地開闢以来、一天四海には様々な偉大なる聖人君子が現れました。
しかし、徳が高ければ高いほど、決して社会的には恵まれていないことが多いのです。
何故でしょうか?
皆さんもこれまでの人生を顧みれば、多々思い当たることがあるはずです。
生き馬の目を抜く世知辛いこの世の中は、正直に誠実に優しくなど生きていたら
それこそ小馬鹿にされ、たちまちに踏んづけられ、ボロボロにされてしまうのが落ちなのですから。
だから人は歳をとるごとにズル賢くなっていくのです。
またそうしないと競争社会では勝ち残れないのです。
競争とは相手を蹴落とすことなのですから。 (2)
しかし、大島丈はそのような現代社会は間違っていると考えた。
少なくとも我が大和民族は、縄文時代にはもっともっと和を尊び日本独自の集団主義の中で平和に生きていたではないか。
「僕がこの負のスパイラルを終わらせなければならぬ」
そう、大島丈は心に誓ったのです。
それは彼の生き様を見れば分かることなのです。
見てごらんなさい。
彼はたとえ憎まれ、裏切りにあい、傷つけられても
決して反撃に出たり、仕返しなどしません。
徹底的な無抵抗主義を貫き通しています。
大島丈を見ていると
ルカの福音書「汝の敵を愛せよ」という言葉と
マタイの福音書「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」という言葉が
頭に浮かんでくるではありませんか。
彼が何故二度も「幸福の王子」を朗読会の演目にに選んだのか?
二度も選ぶというのは当然、意図があるわけです。
いわば、彼の宣言なのです。
彼はイエス様の「自己犠牲は愛」を貫き通すと、我々にメッセージを送ったわけなのです。
それが本当の意味での「人間の任務」であり「人間の成功」なのですから。
年々、人類の負の感情が多くなることで、宇宙の記憶庫にはドス黒いエネルギーがたまりこんでいます。
当然、エネルギーは上から下に落ちてきますから、たまった毒エナジーは地球に降り注ぎます。
ここ数十年で天変地異があからさまに多く起きるようになっているのはそれが原因です。
「因果応報」「人を呪わば穴二つ」ということわざは、この人類のエネルギーと宇宙の記憶庫の関係を指し示しているのです。
大島丈はそれが分かっているので、人類の負の感情を命がけで食い止めようと闘っているのです。
だから「愛」を叫び、「愛」を体現しているのです。 今一、「人生の幸せ」「大島丈の生き方」という意味が分からないという方もいらっしゃるかもしれません。
そこで私が体験したエピソードをひとつ紹介させていただこうと思います。
少し、大島丈が見えてくるかもしれません。
数年前にも載せたかもしれませんが、私のある日の日記からの抜粋です。
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【おでん】
駅前に小さな公園がある。
その公園の一角に、この季節になると屋台のおでん屋が店を出す。
私は家路の途中、公園のベンチに腰をかけ熱い缶コーヒーで体を温めるのが慣わしである。
ふと見ると、
車椅子のおじいさんが、おでんを注文しようとしている。
手と顔が常にプルプルと震えている。
どうやら障害があるようだ。
おでんを注文しようにも、言葉が不自由で「あう、あう」としか声が出ない。
おでん屋はしびれを切らし苛立ちながら、
おじいさんの注文を半ば無視し、山勘で適当な物を皿に載せ、
おじいさんの財布をもぎ取り、お金を乱暴に抜き取っていた・・・・
それでもおじいさんは、幸せそうに、不自由な手でじゃがいもを頬張っていた・・・・
これだけ虐げられているのに、
これほど悲しい身の上なのに、なんという幸福に満ちた表情をするのだろう!
私は涙が止まらなくなった。
そして、ふと不思議な感覚に包まれた。
私は常日頃、この涙に似た感覚を味わっている・・・・
そうか!
丈作品には、この涙と同質の感動があるのだと気づく。
それはヴィクトール・フランクルの思想
「どんな時も人生には意味がある」の体現による感動なのかもしれない。
生きることは滑稽であり、残酷である。
それでもなお人生は尊く美しい。
丈がいる限り、人間は捨てたものじゃないと思えてくる。
丈がいる限り、もう一度人間を信じてみようと思えてくる。
丈がいる限り、灯を見失わない。
丈がいる限り、決して独りではない。
丈は人類のライフなのだ! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています