崩月夕乃。
かつて飛行機事故で家族を失った真九郎を自分が生まれる前から
8年もの間、ずっと真九郎と寝食を共にし、絆を育んでいた女。
そして、その崩月の力に紫は何度も窮地を助けられてきた。
だから、婉曲な見方をすれば紫は夕乃に恩を受けていることになる。
その夕乃こそが、今回の紫が我を忘れて取り乱すような事態を
引き起こした張本人だからこそ、紫はどうしても真九郎に対して
自分の本心を打ち明けることが限りなく不可能になってしまったのだ。
九鳳院紫は紅真九郎を愛している。
それは生を受けたときから、光当たることなく一生を終える宿命の紫に
生きることの素晴らしさや、自分では抗うことの出来なかった運命を
意図も容易く、我が身を省みることなくぶち壊してくれたただ一人の
男だからだ。
恋はとても素晴らしい。紫の母親は彼女にそう言い残して死んだ。
紫もそう思う、と彼女は心の中で母に答えを返した。
誰かを好きになることで、前を向いて生きる気力が湧いてくる。
真九郎を好きになることで、もっと彼のことを知りたくなる自分がいる。
この恋は、今まで自分が体験してきたどんなことよりも、素晴らしく
また大きな変化を自分と真九郎にもたらしてくれた。
にもかかわらず、真九郎は中々自分に振り向いてくれない。
理由は分かっている。
真九郎ほどいい男は他にいない。
自分の他にも彼と一緒に添い遂げたいと願う女が沢山いることも
理解している。
夕乃、銀子、切彦...環と闇絵はまぁ、アレだが。
とにかく付き合ってみれば分かるが、紅真九郎は魅力的だった。
しかし、だとすれば...
(私は、真九郎の一体なんなのだ?)
護衛対象?好きな女?それとも放って置けない存在?
真九郎を好きなままでいられた時なら、考えなくても良かった
面倒くさいことが、次から次へと頭の中に浮かんでくる。
(分からない!分からないのだ!どうすればいい、なぁ?!)
真九郎!
だが、その心の声が本人に届くことはなかった。
「少女よ。君は...恋は素晴らしいと話していただろう?」
いつまでも泣き続ける紫を見かねたのか、闇絵は少しだけ紫の中にある
懊悩を解きほぐしてやろうかと思い、その腰を少し上げた。
紫も、その鷹揚な態度にいつもの自分を若干取り戻したのか、
どうしても晴れない自分の心のもやもやを少しずつ打ち明け始めた。
「うむ。だが、いまは...どうしてもやりきれなくて辛いのだ」
「ふむ、なぜかね?」
「その理由は...ええい!私にも、なぜだか全くわからん」
「真九郎の朴念仁!どうして私の気持ちに気が付いてくれんのだ」
「ふっ。まだまだ青いな」
「なにぃ!」
「青いさ、少なくとも自分の心に嘘がつけない時点で君は幼い」
「?私は七歳だぞ」
「そう。そして君の恋も君と同じ歳のようにまだ青く、未熟だ」
「どうしてだ!!なぜ、闇絵はそんなことを言える?」
「君の倍ほど生きていれば、いくらでもそういうことは言えるさ」
「楽もあれば苦もある。山もあれば谷もある」
「君も少年も、今が一つの山場といえるな」
「歩け。考えろ。そうして答えをいくつも出して人は前に歩くのだ」
紫が答えを返す前に、闇絵は薬缶からマグカップに紅茶を注ぎ
紫にそれを勧める。
「少女、それを飲んで、落ち着いたら部屋に戻るがいい」
「少年とて好きな女に喚かれ続けたら気が滅入るだろう」
「うむ。そう、だな。ありがとう、闇絵」
家を飛び出し、電車を乗り継ぎ五月雨荘の最寄り駅に着いたのが午後八時。
「真九郎さん...」
そしてこれから紫に対し、自分の中ではっきりとさせたいことを頭の中で
整理しながら、夕乃は五月雨荘へと急いでいた。
真九郎が巻き込まれた紫のいざこざの一応の顛末を夕乃は知っている。
紫は現当主の温情で一応、奥ノ院を出、九鳳院の一員として現時点は
扱われている。また社会を学ぶという名目で小学校に通っている。
しかし、それはあくまでも一時的な物でしかない。
紫の存在意義はつまるところ、子供を産む九鳳院の道具。
あの柔沢紅香とて、紫の一生に対して最後まで責任を負うつもりは
おそらく無かっただろうと夕乃は推察する。
真九郎はそういう物事の裏を見ないで、ただ単に紫という少女の
境遇があまりにも哀れで、助けられずにはいられないという理由で
無謀な賭けに出て、奇跡的に成功したに過ぎない。
だから夕乃は紫に九鳳院の道具としてではなく、一人の自分という
『個』としての本心とこれからどうしたいのかを見定めなければならない。
もし、真九郎を自分だけの便利屋かなにかと勘違いしているなら
即刻真九郎から引き離さなければならない。
紅香も、紫とその母親との依頼を完全な形で果した以上はまた九鳳院と
事を構えて、紫を九鳳院から奪おうなどと考えていないはずだ。
色々なことを考えている内に、夕乃の足は五月雨荘の前で止まっていた。
腕時計を見ると、時間は8時23分。
「......」
真九郎の部屋には明かりが灯っていない。
どうやら長い話し合いになりそうだと、夕乃は心の中で嘆息した。
「真九郎...戻っているのか?」
「ああ」
「そうか」
環と闇絵。
二人のそれぞれの助言を得た紫と真九郎は部屋に戻り、どちらが
言うまでもなく、互いの体を寄せあう。
最早ここまでくれば余計な考えや言い訳は不要だった。
ただ、言葉を重ね、互いの想いを一つにすれば良い。
「真九郎。さっきな、散鶴から電話があったんだ」
「散鶴の奴、真九郎が自分と夕乃の男だと私に言い放ったんだ」
「うん」
「それでな、散鶴は真九郎が夕乃に愛の告白をした」
「崩月の家の人間はそれを祝福したとも言っていた」
「それは、本当なのか?」
「ああ。本当だよ」
「ッ...嗚呼、恋が敗れるというのは、こうも辛いのか...」
「紫、でも俺は、紫が好きなんだ!」
「信じてくれ!俺は、お前が...お前が俺を救ってくれたから...」
「ああ。勿論だ」
「ふふ、信じるとも。真九郎は私に嘘をついた事は一度も無いんだからな」
「聞かせてくれ、真九郎。夕乃をどうして選んだのかを...」
「...俺は、ずっと悩んでた」
「最初は夕乃さんに押し倒されて、そこから体の関係でずるずるいって」
「幸せだった。愛しているって、俺が大好きだって、そう言ってくれたから」
「でも、耐えられなかった...」
「夕乃さんが、他の男と一緒になるのが凄くイヤになったんだ!!」
「他の男に抱かれて幸せな顔してる夕乃さんを想像したくなかった!」
「俺に世界で一番愛しているって言ってくれる人を失いたくなかった!!」
「分かってる!分かってたんだ全部。紫の気持ちも夕乃さんの想いも!!」
「夕乃さんを抱いている時でも、お前の顔がいつも脳裏によぎった」
「でも止められなかった...」
「止められなかったんだよ!!苦しかったんだ!」
「なぁ...紫。俺は、どうすりゃいいんだよ」
「...ごめんなぁ。真九郎。お前はそんなに私を想ってくれていたのか...」
「つくづく私は果報者だな。お前に謝るのは私の方だ。すまぬ」
「はぁ...しかし夕乃は本当に重くて面倒くさい女だな」
「そんなにガチガチに縛れば真九郎が潰れてしまうではないか」
「でもな、真九郎。私は今、あまり怒っていないのだ」
「自分でも意外なことに、心が落ち着いている。なぜだか分かるか?」
「.......」
「お前の口から私と『別れる』という言葉が出てこなかったからだ」
「夕乃の色仕掛けは卑怯な手だが、それはまぁ許す」
「そういうことを真九郎に出来なかった私が悪かっただけの話だ」
「紫...」
「真九郎。お前はまだ、私に恋をしているか?」
「ああ。ずっと恋しているし、もうとっくに惚れてるよ」
「そうかそうか。ふふん、夕乃の奴め。詰めが甘いな」
「まぁこの調子だと、真九郎にあやつも泣かされた筈だ」
「そして、真九郎が夕乃を泣かせられるたった一つの理由、それは」
「この私だ!」
「む、紫...お、お前...どうして、そんなことが分かるんだ?」
「女の勘と真九郎と私が両想いという事実がなによりの証だ」
「は、ははは...敵わないなぁ、紫には」
「うむ。当然だな」
「だが、な...真九郎。今から聞く質問には真剣に答えてくれ」
「お前と出会ってからの数ヶ月、大変な事が沢山あった」
「竜士兄様のこと、理津のこと、切彦のこと、そして夕乃とのこと」
「その度に私もお前も窮地に陥りながら、なんとか切り抜けてこられた」
「真九郎の言葉とその想いに私は何度も救われた」
「だから、真九郎」
「真九郎が私に掛けてくれた言葉を、私は信じてもいいんだな?」
「ああ。その全部が俺の本心だ」
「そうか。なら、もう私は...何も怖くない」
紫はそこで一旦言葉を切り、ドアの向こうを凝視した。
「そこにいるのだろう。夕乃。話をしよう」
意を決した真九郎と紫が見守る中、遂に最後の扉が開かれた。
午後九時
「こんばんは。紫ちゃん」
「こんばんはだな。夕乃」
静かに扉を開け、真九郎と紫の部屋に入ってきた夕乃は真九郎を
一瞥することなく、ただ紫だけを見つめていた。
「真九郎さん。私は今から紫ちゃんとお話しをします」
「貴方がいると言いたいことも言えないので、外で待っていてください」
「分かりました」
「真九郎。話が終わったら電話するからな」
「自分の携帯を壊したのは一体誰ですかね?」
「し、しまった!」
慌てる紫に笑いかけた真九郎は、そのまま部屋を出ていった。
「ねぇねぇ真九郎君。紫ちゃん一人にして大丈夫なの?」
「夕乃ちゃん。今までに無いくらいヤバい感じで極まっちゃってるよ?」
「分かってます。でも、俺は夕乃さんのこと信じてますから」
「まぁ、真九郎君がそういうならいいんだけどさ〜」
廊下で事の顛末を見守る環と二、三言葉を交わした真九郎は、二人の
話し合いの邪魔にならないよう、五月雨荘から出て行き、夜の街中へと
歩き出していった。
真九郎が五月雨荘の門から出て行ったのを確認した紫と夕乃は
小さなちゃぶ台を挟み、顔をつきあわせた。
紫と夕乃の最終対決、まず先に口火を切ったのは紫だった。
「夕乃よ。真九郎とのことを話す前に一つ聞かせて欲しいことがある」
「なんですか?」
「夕乃は私のことをどう思っているのだ」
「どう思ってるって、それは...」
「恋敵か?それとも表と裏の因縁ある家系の子供か?」
答えにくい質問をする物だと、夕乃は心の中で苦笑した。
夕乃個人としては、紫の事を真九郎を巡る恋敵として認めている。
が、
「その聞き方であれば、恋敵でしたね。昔は」
「真九郎を手にした今は?」
「それが...分からないんです」
「真九郎さんを手に入れた後、貴女のことを伝えられました」
「貴女を手に入れる為に、私に自分と名字を一緒にしろと」
「私の懇願を最後まで撥ねつけた上で、貴女を捨てられないから、と」
「最後まで貴女の未来に対して責任があると、貴女を案じていました」
紫の質問に淡々と答えながら、夕乃は真九郎が自分に言い放った
言葉をかいつまんで紫に伝えた。
紫も真剣な表情で夕乃の一言一句を聞き漏らすまいとしていたが、
やはり真九郎と両想いだということが、よほど嬉しかったのか、時折
微かな笑みを浮かべていた。
それがまだ紫が真九郎を諦めないという心から来ているのか、あるいは
既に自分と真九郎の心は一つなのだと勝ち誇る心から来ているのかを
夕乃自身が知る術はなかった。
「そうか...。夕乃よ、だとすれば私は貴女に謝らなければならないな」
「すまぬ。私のせいで夕乃の心を深く傷つけてしまった」
紫は真九郎の本心が本当だった事に安堵しながらも、同時に自分の
せいで夕乃の恋が成就とはほど遠いものになったことを薄々感づいていた。
自分が他人の人生の足を引っ張ったことに対する責任の取り方を
紫はまだ知らない。
だから、精一杯の気持ちを込めて紫は夕乃に頭を下げた。
「よして下さい。そんなこと言われたってちっともうれしくありません」
頭を下げた紫を見つめながら、まるで苦虫を噛みつぶしたかのような
表情を浮かべた夕乃は、遠慮無く紫の謝意を否定した。
私のせいで、という紫の言葉に腹立たしさを感じたのもあるが、
やはり一番は、最後まで真九郎と自分の恋路の邪魔した紫への
冷たい怒りが夕乃の癇に障って仕方がなかった。
心の中から湧き上がるどす黒く、冷たい衝動に己の心を委ねながら
夕乃は言葉を選ぶことなく、紫を痛めつけ始めた。
紫も、先程までとは異なる異様な雰囲気に包まれた夕乃に思わず
萎縮しながら、懸命にその怒りを受け止めようと姿勢を正した。
おそらく、これが夕乃の心の闇。
そう見当をつけた紫は腹を括り、夕乃と向き合う覚悟を決めた。
「もっと簡単にいきましょうか。私は、貴女のことが憎いです」
「好きか嫌いか、と聞かれれば...そうですね、やっぱり嫌いです」
曖昧に濁された質問の答えを、あえてはっきりと断言した夕乃の瞳には
情の一欠片も残されていなかった。
人間味を一切廃しながらも、半端でない程の強烈な怨みの感情が
紫の無防備な心を叩き潰そうと一斉に襲いかかる。
「後から出てきて、私が生涯の伴侶と決めた真九郎さんを掻っ攫い」
「関わらなくてもいい事にまで首を突っ込ませ、死なせかけた」
「貴女が奥ノ院にずっといれば、真九郎さんは私だけを見てくれた」
「これが私が貴女を憎む理由」
夕乃の放つ恐ろしい負の感情の前に、紫は恐怖の涙を流した。
だが、心の底では夕乃が自分を憎む理由も理解できていた。
真九郎が家を出て一人で暮らす前は、夕乃が真九郎にとっての
心の支えだったのだろう。家族を失った真九郎が在りし日のように
心からの笑顔を取り戻すのはとても困難な事だったはずだ。
それは、真九郎の心の闇に踏み込んだ自分が一番分かっている。
「嫌いな理由というのは、これは私の個人的な感情ですけど...」
「同族嫌悪的な感情を私は貴女に感じています」
「同族、嫌悪?」
「私は、あまり自分を夕乃と似ていると感じたことはないが?」
やっとのことで絞り出したその声は夕乃の耳に届くことはない。
「愛する人の為に、自分を捨てられるか、あるいはどれだけ尽くせるか」
「!」
「また、自分以外の女に真九郎さんを絶対に渡さないという覚悟」
「今の貴女は否定するかも知れませんが、じきにそうなります」
紫は今この時ほど、相手の嘘を見抜く己の直感力の高さを恨んだことは
なかった。
自分に対して、あらんかぎりの否定の言葉を投げつける夕乃の顔が
いつの間にか能面から一人の女に戻り、悔し涙をボロボロと流している。
真九郎無しの人生なんて考えられない。
なのに、なんで真九郎は、私だけを見てくれないのだろう。
考えていることは同じでも、真九郎と紫によって夕乃にもたらされた
事実はあまりにも残酷過ぎた。
「でも、一番は、私よりも先に真九郎さんの心を手に入れたから」
「これが私が貴女を嫌う理由ですね」
「そうか...」
そう、夕乃に言われなくても全部理解しているのだ。
自分が奥ノ院の宿命から逃げたせいで夕乃は苦しんでいる。
真九郎の心の痛みも、弱さも、悲しみも全部受け入れて、共に歩く
未来の為に必死になって、夕乃は真九郎に尽くしてきた。
そして、その努力が実るあと一歩というところで、自分が
真九郎の心を癒やしてしまった。
結果、皮肉なことにそれが真九郎が紫を好きになる決定打となった。
紫もこの偶然に巻き込まれたことで、真九郎への恋が芽生え、自身の
運命すら変えることになったのだ。
夕乃でなくても、こんな酷い仕打ちがあっていいものだろうか。
いや、そんな道理はどこを探しても見当たらない。
「単刀直入に言わせて頂きます。紫さん、真九郎さんを諦めて下さい」
「あの人と名を同じくするのは私だけでいいんです」
故に夕乃は、目の前にいる全ての元凶から真九郎を取り戻そうと
必死になっていた。
例え、紫の心が砕けようと夕乃が止まることはない。
何故なら今の夕乃は恋に狂ってまともな精神状態ではないのだから。
「貴女が真九郎さんと添い遂げようとすると、また軋轢が生じます」
「わかりやすく言うと、九鳳院の九割が今度は真九郎さんの敵になります」
「崩月を預かる身としては、これ以上の厄介は抱え込みたくありませんが」
「まぁ貴女の二番目のお兄さんは喜々として真九郎さんを嬲るでしょうね」
九鳳院竜士。
かつて自分を犯そうとした、実の兄にして卑劣漢。
あの一件の後、外国に留学という名目で九鳳院から放り出されたが、
どうでもいいプライドだけが肥大したろくでなしが、自分をボコボコにした
真九郎に対して抱く感情と言ったらただ一つしか無い。
「そんなこと!」
夕乃の言う自分と真九郎が迎える最悪の未来も絶対に起きないという
保障も可能性もどこにもない。
否定したいのに、今の自分にはそれを覆すことができない。
紫は夕乃の言葉に虚勢を張るしかなかった。
「いいえ。今度ばかりはそうなります」
「だって、貴女が人質に取られれば真九郎さんは何も出来なくなるからです」
「そうなる前に、貴女は現実を知るべきでは?」
「くっ...だが、そ、そうなるとはまだ決まったわけでは...」
「なら、今度は自分から進んで九鳳院の役目を果すと?」
「私としても、それが一番いいなぁとは考えましたけどね」
「でも、貴女。死にたくないでしょう?」
「正確に言えば、真九郎さんと死で引き裂かれるのが怖くて堪らない」
何も出来ない自分の非力さをあざ笑うかのように夕乃は紫の選択肢を、
一つずつ理詰めで潰していく。
紫が考えて、実際に彼女が今からでも実行できる解決策を否定する。
「ううっ...ど、どうしてそんな事ばかり夕乃は私に言うのだ...」
「言ったでしょう。私は貴女のことが憎くて嫌いなんだって」
「......」
「どうしたんですか?黙っていては話が先に進みませんよ?」
これ以上無いほど卑怯なやり方で、夕乃は徹底的に紫を否定し続けた。
「夕乃は、卑怯だ!」
「私だって本当は九鳳院みたいな所に生まれたくなかった!」
「普通の家庭に生まれて、普通の家族と普通に過ごしたかった!」
「友達を作って!好きな人に恋をして!楽しいこと一杯やって!」
「家族が一人も欠ける事無く、全員で仲良くしたかった!」
「そんなことを叫んでも、現実は変わりませんよ?」
夕乃は酷薄な笑みを浮かべながら、紫の心の叫びを一蹴し続ける。
だが、紫は未だに真九郎のことを諦めない。
それが、夕乃の心を更にかき乱し、苛立たせる。
紫の心をへし折って、二度と崩月に近寄らせないようにするつもりが、
いつのまにか、その瞳の中にある嘘偽りのない想いに絆されそうになる。
(いえ、そんなことはありえません...)
(だって、私は...真九郎さんは『裏十三家』なんですから...)
頭を振りながら、これ以上紫を否定しないでくれと心で泣く自分を
無理矢理に心の奥底に封じた夕乃は、最後の仕上げとばかりに
紫に向き直って、トドメを刺しにかかった。
「貴女は九鳳院で私は崩月の一人娘」
「そして真九郎さんは私達崩月が育て上げた戦鬼」
「いずれ、あの人は近いうちに望もうと望むまいと人を殺める筈です」
「どこかの財閥と関わったばかりに...なんてことでしょう」
「夕乃...お前....!!」
遂に一線を越えた発言をしてしまった夕乃に対して、今まで否定
されるがままだった紫も、冷静さをかなぐり捨てて激昂した。
「さぁ、それでも貴女は変わり果てた真九郎さんを愛せますか?」
「貴女を救う為に、貴女の家族を殺そうとする殺人鬼を」
声を詰まらせながら、それでも懸命に夕乃は虚勢を張り続けていた。
夕乃が真九郎を信じるように紫もまた真九郎のことを信じている。
優柔不断ですぐに泣くが、本当は誰よりも弱さに逃げずに立ち向かう
勇気を持つ男。紫にとって真九郎はそんな男だった。
だから、迷うことなく自信を持って答えを出せる。
自分は真九郎を信じるという、たった一つの真実を。
「私は...真九郎が人を殺そうとするなんて想像したくない」
「だが、私は...」
「自分が助かりたいが為に家族を見捨てるような選択はしない!!」
「真九郎が私を救う為に、家族を殺すというなら私が死ぬ!」
「どんな真九郎でも私が好きになった真九郎はたった一人だ!」
「断じて、易々と人を殺すような殺人鬼ではない!」
「真九郎は変わらない!だから!私は真九郎を愛し続ける!」
「夕乃!お前もそうだろう?!そんな真九郎が大好きなのだろう?!」
完敗だった。
ここまで堂々と高潔に、純粋に真九郎への想いを叫ばれては、もう
これ以上、夕乃が紫を否定することは出来なくなってしまった。
紫は目をそらさない。
この会話が始まってからずっと、ずっと現実から目をそらさずにいる。
おそらく、この子は真九郎がこの先、人を殺めたとしても、たとえ
真九郎が自分を拒絶したとしても、きっと真九郎から離れないだろう。
「うっ...うううっ...も、もうイヤ...」
先に、音を上げたのは夕乃だった。
最初から分かっていた。
外道に徹し、真九郎のことを諦めさせようとしても、紫は決して
真九郎を諦めないということも、自分がそんな紫を無自覚のうちに
好きになっていたということも....。
夕乃が心の底から真九郎を嫌いになれないように、紫の事も心の底から
嫌うことが出来ないことなんて、最初からわかりきってたことなのだから。
「諦めてよぉ...私から、真九郎さんを...大好きな人を奪わないで...」
「夕乃...もういい!もういいんだ!」
「夕乃が望むなら、私は真九郎にとっての一番でなくてもいい...」
「紫ちゃん...」
涙をぬぐい、ようやく曇りなき瞳で紫と相対する夕乃に紫は
更に自分がどうしたいのかを、熱意を込めて語り始めた。
「夕乃!私は九鳳院だ。それは変えようがない!」
「だが、九鳳院以上に真九郎が大事なのが私の本心だ!」
「真九郎がいれば、私は何でも出来る。不可能だって可能にしてみせる」
「いや、それ以前に私は、私の力で真九郎の力になってやりたい!」
真九郎が自分を未来へと導いてくれた。
ならばこそ、今度は自分が真九郎の望む未来へとその手を引いていきたい。
夕乃も、紫も、その心の根底にあるのはそれだけだった。
ただ、その想いが強すぎて、誰とも分かち合えないと思い込んでいた。
しかし、もう二人の間にあるわだかまりは既に溶けていた。
今ここにあるのは互いを認める素直な気持ちと心だけだった。
「夕乃。私を真九郎の側にいさせてくれ!」
「どんな形でも良い!私は真九郎の側にいるのが一番の幸せなんだ」
そうだ。私は今までなにを遠回りしていたんだろう。
たとえ真九郎と結ばれなくても、ずっと、どんな形であっても
愛する人を支えたい。そう思っていたはずだったのに.....。
「紫ちゃん。今の言葉に嘘はないですか?」
「無い!」
「一人の女として、私にそれを死ぬまでずっと誓えますか?」
「誓う!」
一番でなくてもいい。ただ愛する者の側にずっといたい。
紫の言葉に夕乃の心は、遂に陥落したのだった。
「頼む夕乃。この紫の一生に一度のお願いだ」
「私から、私が愛する紅真九郎を奪わないでくれ!」
畳に手をつき、頭をつけた土下座をする紫を起こしながら、夕乃は
僅かに残った涙をぬぐい、最後に残った心の闇を綺麗に清算した。
真九郎は結局自分だけを見てくれなかった。
けれど...
「...完敗ですよ。はーぁ、本当に負けました」
「ゆ、夕乃?」
「貴女の気持ち、本当に分かりました」
今なら、紫の気持ちが分かるかも知れない。
だって、こんなに素敵な女性ならいつまでも一緒に居たくなる筈だ。
臆することなく心の闇に踏み込んできて、いつの間にかその闇を
綺麗に晴らして、前へと進む力と決意を与えてくれる。
そんな九鳳院紫という少女に崩月夕乃は心惹かれてしまったのだ。
「紫ちゃん。いつか私と一緒に真九郎さんと暮らしませんか?」
「ほ、本当にいいのか?!」
「ただ、真九郎さんの一番目の奥さんの座は譲れません」
「それでもいいなら、私は、崩月は貴女を家族に迎え入れます」
「夕乃〜!」
夕乃の豹変に戸惑いながらも、紫は自分が認められた嬉しさを
隠すことなく夕乃へとぶつけた。
夕乃も紫に対して抱いていた心の闇がなくなった今、目の前の
少女に対して、かつて真九郎に対して抱いていた庇護欲のような
感情がわき上がってくることを自覚した。
「私は、なんていうか...不器用で、感情的ですけど」
「貴女と上手くやっていけるように、ちゃ、ちゃんと努力します」
「だから、もし貴女さえ良ければ...」
「私を姉のように思ってくれても構いません」
これから先、どれくらい紫と一緒に過ごせるのかは分からない。
だけど...
「貴女を嫌う理由も憎む理由も、もう無くなりましたから」
紫との関係を一新するのなら、姉妹という関係が一番だと夕乃は思った。
「ほ、本当に良いのか?夕乃」
「わた、私の気が変わらないうちに早く返事をして下さい!」
「ああ。夕乃がこれから私の姉になってくれるなら大賛成だ!」
「よろしく頼む。夕乃!」
「さて、そうと決まれば騎馬に連絡せねば」
「何を連絡するんですか?」
床に散らばる携帯電話の残骸を見遣りながら、紫に何気なく尋ねる。
これから私も真九郎さんのように、紫ちゃんに振り回される毎日を
送るんだろうなぁ。としみじみと思いながら物思いに耽る夕乃が
真九郎の部屋の電話に手をかけたその時...
「決まっておろう。真九郎を九鳳院の近衛隊に入れるのだ」
「はぁ?!」
事もなげに、さらりととんでもないことを紫は言い放った。
「何をそんなに驚いておるのだ、夕乃?」
「驚きますよ...大体、そんなこと急に言われたって...」
「ふくりこうせいとやらは九鳳院は世界で一番しっかりしているぞ?」
「ダメです!まだ真九郎さんは崩月流の修行が終わってません」
「それに、近衛隊に真九郎さんが入れば一緒にいられる時間が減りますよ」
「なに?!そ、それはイヤだ。ううむ、やはり崩月の修行が先かぁ」
「そ、そうですよ」
紫は実に残念そうな表情を浮かべながらも、お父様に真九郎のことを
認めさせるには実に良い機会だったのだがなぁ。と未練がましく
夕乃に抗議していた。
確かに今の真九郎の実力なら、そこそこ通用はするだろうが
九鳳院とて、最終学歴が中卒の近衛兵を置いておきたくないだろう。
せめて、真九郎が卒業するまで保留するというのが妥当な判断だろう。
「この話は、これでおわ...」
「そうだ!なら、夕乃が近衛隊に入るのはどうだ?」
「私?いや、だって私」
いきなり自分に矛先を向ける紫に対して、夕乃はその意思はないと
説明しようとした。しかし...
「花嫁修業にはもってこいの場所だぞ?」
「給料も良い。人脈も出来る。暇なときはいくらでも休暇が取れるぞ?」
どのみち、高校を卒業したら崩月の修行の傍らで就職活動も始めなければ
ならないだろう。
しかし、何度も面接を受けるのも骨折りだし、崩月を名乗り続ける以上、
命を狙う輩に絡まれる不安もある。
そういうことを踏まえれば、紫の申し出はとてもありがたい。
「...ちなみに育児休暇って取れますか?」
「まぁ、そこは応相談という奴だ。働き次第だろうな」
いずれ真九郎も揉め事処理屋からの転職を考えるはずだろう。
そうなった時、真九郎と一緒に紫を守りながら働くというのも
刺激的で悪くないかもしれない。
「それなら、少し待ってて貰えませんか?」
「うむ。決心がついたら私に教えてくれ。騎馬に話は通しておく」
相容れない表と裏であるにも関わらず、彼女達は笑い合っていた。
まるでこれから先の人生には幸せなことしか訪れないのだというように、
紫と夕乃はいつまでも笑い続けていた。
「あとの問題は、九鳳院の遺伝的な問題だけだな」
「...紫ちゃんのお兄さん達からお世継ぎが産まれればいいですね」
「うむ。そうなれば、私も真九郎の子供を安心して身籠もれる」
真九郎の夢に付き従う身として、これから降りかかってくる困難が
どれだけ無理難題であろうとも、きっと乗り越えて見せる。
何故ならここにいるのは愛の力で運命を変えてきた者達だからだ。
「色々、大変になりますけど頑張りましょうね。紫ちゃん」
「ああ。これから迷惑をかけるが、私も夕乃と真九郎の支えになって見せる」
この世界は残酷で救いがない。
だから人は誰かと寄り添うことで、幸せを得る為に戦う決意を決められる。
これは、いつか来る終わりの時まで愛を叫びながら生きた者達の物語。
どこまでもまっすぐに自分の意思を貫いた彼等の未来は...果たして
〜紫の嫁入り 後編に続く〜
伊南屋さーん。たまにはここに戻ってきてss書いて欲しいです。
0768名無しさん@ピンキー2021/02/11(木) 23:58:39.47ID:yU9sJcMw
まさか電波が漫画化とはね