逆になぜ疑うのかということを考えたほうがいい

死が本当だという証拠も無い、死が嘘だという証拠も無い
つまり今の時点でどっちの立場をとる理由も本来ならないはず
信じる、疑うは証拠以外の部分での判断ということになる
つまりお気持ち

そこで発言が本当だということは、つまり他人への尊厳が最大限尊重されると考えるから
もし本当に亡くなっていた場合、疑うことはその人への冒涜に他ならない
それは後で回復不可能なものになりうる、なぜなら疑ったことは取り消せないんだから
疑うのはそういう証拠が出てきてからでも全然遅くない