俺と比内は結局、付き合っているようなそうでもないような状態に落ち着きかけていた。
 だからというか、暑さがぶり返した今日、俺は大学から帰ってきた足で涼を求めて比内の部屋を訪れた。
 しかし誰も居ない。俺は比内というより冷房に会えないことに落胆して階下の自室へと向かった。
 そしたら扇風機を占拠した比内が居た。
 比内ときたらビーズクッションまで持ち込んでまるで自室のようにくつろいでいた。
着ている服もラフなTシャツにショートパンツと完全に部屋着だ。
 ここで比内の来訪を察知した木鳥まで居たらそれはきっと本編で、西園がちょっかい出してきても
それはきっと本編。板違いになってしまう。……自分でも何を言っているやら。
 それはともかく彼女は俺の家に勝手にストックしていたあずきバーを囓りながらふてぶてしく言ったのだ。
「冷房壊れたから扇風機借りてるわ」
 当然俺は涼しい顔しやがっているそいつに反抗するわけだ。いつも通りの応戦があり、
あずきバーを奪い合い、涼しくなってきた気温に逆らって汗を流すアホだった。
 争い疲れた比内は扇風機前のクッションでぐえーっと伸びていて、俺も少しでも涼を取ろうと
クッションに手をつき扇風機前に乗り出す。
 ふと見ると比内の顔にはまた邪悪な感じで髪が張り付いている。邪魔だったので払って、
喉元を見据えてくる視線を無視して眺める。目の大きさも表情も偏りがひどい。
 思うところがあったのか比内も少し上体を起こして俺の前髪を掴痛い痛い痛い……
「痛いわ!」
「痛くしたのよ。冴えない顔ね」
 ストレートに貶されて反骨心は芽生えるものの、綺麗だからと眺めていた俺にその顔を貶す嘘はつけない。
 そして、近いなぁと思ったときには唇が触れ合っていた。あずきバーのせいでかすかにべとつき、
冷えた唇はそれでも弾力があり、引力がある。
 とはいえ、こちらから攻め入るほどの覚悟もまだ満ちてないし向こうからされたわけでもない。
多分手が滑ったとか足が滑ったとかそんなもんだ。その証拠に今すごく手首攣りそう。
 そんな事故の接触は一秒に満ちないうちに、どちらからともなく離れていく。
 ただ、うっかり慌て忘れて故意のキスと同じ作法で短く距離を取ったせいで、それ以上離れられなくなった。
ああこれ続くなぁと他人事のように思う。
 前の彼女はキスマークをつけるくらいならキスの感触を口に刻む方が残ると言って笑っていた。
当時ぱっぱらぱーだった俺はそうして満身創痍になることを歓迎していたし、
一生お互いの傷を増やしていく予想図にロマンチシズムすら感じていた。死にたい。
 体が覚えていた首の角度で、唇の力の抜き方で、舌先の力の入れ方で比内の唇に浅く割り込みながら、
傷跡の深さを思い知る。
 そういえば、キスというのはこんな風にするもんだったか。
 この間手にしたときはまったく思い出せなかったというのに、急に出てくるものだ。
 だけど記憶に頼りきりの所作は続かない。やはり相手が違えば感触も顔形歯並び骨格舌の厚さも
動作も何もかも違う。何より比内の匂いがずっとしている。
 俺は比内の冷たい鼻先が火照った頬に当たるのが楽しくて、頬ずりしようと頑張るみたいに角度を変える。
触れ合った部分からぐだぐだに溶けて、それが唾液になっているような錯覚が心地良い。
絡ませた舌は、表面が摩擦を、裏面が弱さを司るように、痺れを爪先まで巡らせている。
 いくらヘタレ野郎でも犬猫と同じ。一度覚えた人肉の味わい方を忘れるのは難しい。
 顔を離せば比内の瞳は相変わらず痛いくらい射貫いて俺を試す。俺も逸らさず視線を注いで、
まるでバトル前の野良猫だ。見つめ合うというより、睨み合っている。
 さて、比内は飛びかかってくるか、逃げるか……どっちでもいいな。
 サンドバッグやめた俺になんぞもう興味なかったとしても、今更逃がす気にはなれなかった。
 取っ組み合って引っ張り合ってよく知っている。比内の肌は俺にとって、とても心地良いのだ。
 先手を打って利き手を頂戴してからもう一度、今度は潜る覚悟で口に口をつける。
舌から出血大サービスでもそれはそれで気持ちがいいんじゃないかと思えるから今の俺は頭おかしい。
 対して比内の抵抗は曖昧でやる気ないものだ。体のよじられ方はお役所仕事で、
口元に余計な力はなく、歯は甘噛みしかしてこない。
 調子に乗って抱きすくめても、口を吸われただけだった。