すればいいのか。そのためには第一章でこのエレクトロニクスな映像を十七世紀のオプティカルな映像と
比較してみたい、ここでもう一度大きく迂回してこのエレクトロニクスの映像というものを例えば鏡の映像、
あるいはそれとは質的に異なる写真の映像、そういったものと比較してみる必要があるのではないか
という気がします。
鏡の時代というのがヘーゲル的な意識の時代であり、それに続く写真の時代というのがフロイト的な
無意識の時代であるとすれば、エレクトロニックな映像の時代というのは何なのだろうか。
まあそういった意識や無意識といった全てを断片化する、千の破片に砕いて表層に飛散させる時
なのかもしれない。かつてアンディ・ウォーホルはあれら表層的なイメージの残酷にして愚鈍な反復に
よって解をみせてくれたように。
しかしまたそれはそうした表層的な無意識が漂うその背後の空洞に、その巨大な空洞に、一種のその
集合無意識、フロイト的なそれというよりもユング的なそれが、無数なアルカイックな神話的イメージの群れ
を伴いながら回帰してくる、そんな時代なのかもしれない。
もし後者が真実なのだとすれば、そしてまた実際テレビゲームにみるようなハイテクマシーンとある種の
神話的イメージとの奇妙な短絡をみる限り、その後者である確率が非常に高いのですけれど、もしその
後者であってみれば多分その我々にとっての未来、現実的な近未来というのは単に未来的なものではない、
単にフューチャリスティックなものではない、むしろフューチャリスト・アルカイックなもの、未来的にして且つ
古代的なものといったほうがいいでしょう。
まあ、フューチャリスト・アルカイック、未来的にして古代的、この奇妙に魅惑的な、しかも恐ろしい状況の
中では、例えばその都市の中心にある巨大なディスコ、最新のエレクトロニックメディアで武装したディスコ
というのが一種の神殿のような役割を果たすかもしれない。