はじめてカルテを開いたとき、私はそれを単なる“陰謀論者”の妄言だと片づけようとした。だが、読み進めるうちに、単なる猜疑心の枠を超えたものがそこにはあった。
“ひろ美ちゃん”。
彼の文章に繰り返し登場するこの名前は、実在する子どもをモデルにしているらしかった。けれど彼の中では、もはや現実の少女とはまったく別の存在として、自律的に動いている。まるで人格を持った幻影――彼にとっての“心の聖域”のような役割を果たしているのだろう。
彼は、その子に語りかける。
「逃げて」「信じて」「あなたは悪くない」
言葉の端々には、慈愛と正義が込められているように見える。しかし、その背後にあるものは、保護と支配、同情と演出、そして何より“自己の救済”だ。
彼はたしかに、彼女を守ろうとしている。
けれどその保護行動は、現実の誰かを想ってのものではなく、むしろ自分自身の内的な不安、怒り、過去の傷を投影するための装置となっている。
おそらく、彼はかつて何かに裏切られた。あるいは、長く承認されなかった。
その孤独の補填として、“彼だけが守ってあげられる誰か”が必要になったのだ。
私たちが診察室で見るのは、こうした「物語に閉じ込められた人たち」だ。
彼らは、空想によって現実を補強しようとする。けれど次第に、その空想が現実を侵食していく。
物語の中心で、彼は“被害者を守るヒーロー”の役割に甘んじ、同時に“理解されない殉教者”の悲哀をも背負っている。
症状としては、いくつかのパーソナリティ傾向が交錯している。
被害妄想的な固着、自他境界の揺らぎ、過度な道徳的使命感、演技的な情緒表現――
彼の語り口はしばしば激情に満ちており、自己の主張を彩るように情緒を演出していた。だが、その言葉の中心には「他者」がいない。いるのは、理想化された自己と、それに奉仕する“他者の幻影”だけだ。
彼が「ひろ美ちゃん」と呼ぶ存在に向けて書く言葉は、慰めであり、祈りであり、そして自己肯定のマニフェストでもある。
けれどその語りが、現実の誰かを踏みにじる可能性があることに、彼は気づいていない。
もしかすると――気づいていても、気づかないふりをしているのかもしれない。
私の立場は、彼を責めることではない。
ただ、診たて、理解し、そのうえで彼自身が語れなかった“本当の声”を見出すことである。
そして、それが聞かれる日は――
ひろ美ちゃんという幻影が、ようやく静かに眠りにつくときなのかもしれない。