【59歳】エディのダッチワイフ14体目(実質94スレ)
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神は無限であるが人間は有限であるとの考えを基に、人間の知性では神を把握できないと知ること(知ある無知)、
人間には矛盾し対立すると見えても神にとっては整合的で同一であると見えること(反対対立の合致)を唱える。
神への信仰と人間の肯定という、中世と近代の思想が融和している。 世界観として、物体を原子とその合成体からなり、物体の変化は原子の結合、分離、移動といった
変化によるとする原子論的唯物論を考えた。倫理として、苦痛を避け欲望に振り回されない魂の状態
(アタラクシア:心境の平静)を快と呼び、それを行動の規範、人生の理想とする快楽主義 人は何かを新たに学ぶのではなく、生まれる前からもっている徳(=知)を思い出すという
想起説と物質の背後には永遠不滅のイデアがあるとするイデア論を説き、
そこから肉体は滅びても魂は不滅であるとする 原初状態で契約をする主体や道徳律を行使する自律的主体の前提となる負荷なき自己を、
現実に想定できないと批判し、自己は目的や愛着と結びついていると説く。
また、自由の権利を重視せず、公共善を実現する社会生活に自由を位置づけるほうがよい 西欧近代資本主義社会での公共性と合理化について、ウィーン学団との実証主義論争、新保守主義との歴史家論争、
ルーマンとの論争などの諸論争を通して、社会での公共性、システムと生活世界でのコミュニケイション的理性、
法と道徳での討議倫理学へと理論を深めている 「ポスト・モダン(高度先進社会での知の状況)」では「大きな物語(普遍性、単一性に通じる、モダンでの知を正当化する仕組み)」の
信用は失墜したと指摘する。
ハーバマスらの思想を言語ゲームの視点を用いて批判し、異型性、多様性を認める「脱正当化」を唱える。 正義の二原理(1他人の自由の権利と両立するかぎり、各人は基本的諸自由を求める権利を有する。
2社会的・経済的不平等は次の2条件を充たすときに認められる。a最も不遇な人の最大の便益に資する。
b公正な機会均等の条件のもとでその地位や職務が全員に開かれている 人間を、主体と客体、即自と対自、身体と精神といった二元論的認識ではなく、
二つの側面をあわせもつ両義的なものとして現象学的手法により、知覚や行動が生成する身体とする。
さらに身体を媒介とする世界内属存在として人間をとらえかえす 絶対的な他者として自己に迫る「顔」や夜の闇のように非人称的に在る「ilya(イリヤ)」を用いて、
世界があることの決定的な無意味さ、他者の理解と超越、その現前・暴力と痕跡を示し、
存在の思考から他者の思考への移行、存在論に対する倫理学の優位を主張する フランクフルト学派と実証主義論争を、クーンとはパラダイム論争をした。
論理実証主義に批判的で、反証可能性が理論・仮説の科学性を示し、
厳密な実験を生き抜いた理論ほど信頼性が高く、科学的理論は反証されるまで
暫定的に受け入れられているに過ぎないという方法論的反証主義に立つ。 人間の行動を、性の欲求充足の側面から分析するフロイトに対して、
社会的側面との相互作用からみる新フロイト主義に属し、フランクフルト学派と交流があった。
社会の存在様式から形成される性格を社会的性格と呼び、
受容的性格、搾取的性格、貯蔵的性格、市場的性格、生産的性格に分類 啓蒙の自己崩壊について、啓蒙の概念の章では神話の具える啓蒙性と啓蒙の神話への逆行を、
文化産業の章では映画とラジオに典型的にみられる啓蒙のイデオロギーへの退化を、
反ユダヤ主義の諸要素の章では啓蒙された文明の未開・野蛮への復帰 無意識が個人的無意識と集合的無意識からなり意識に作用すること、
集合的な心の断片としてあるペルソナ(仮面)と意識の関係、
無意識の中にあるアニマ(男性が女性に描く像の元型。女性が描くものはアニマス)や
呪術的な性質をもつマナ人格の存在を、臨床経験を元に指摘する。 意識の流れを純粋な持続として捉え、持続が実在であるとし、
持続を生命進化に広げ、持続から社会進化につなげ、
それぞれ時間論、心身問題、生命進化、道徳と宗教について論じる 構造主義的な発想から、言語活動を能動的で個人的な発話(パロール)と
受動的で集団の中に見られる言語(ラング)に区別し、発話は言語の体系の中で
意味を持ちうるとした。また、シニフィアン(聴覚イメージ、記号表現)と
シニフィエ(概念、記号内容)の結びつきが語を存在させるとする。 代数は論理学にすぎないとする論理主義を主張し、
代数を論理学に還元するために新たな論理学を構築 論理学、数学、物理学、天文学等の知見から、個体を実体としてではなく、
出来事の関係項として捉え、時間、空間、世界、宇宙を連続性から考察する。
そのなかで、出来事の論理を説き、現代の述語論理学に通じる関係性の論理学を提言 労働力と生産手段の関係である生産諸関係が下部構造を形成し法律的、政治的上部構造を決定するとし、
生産過程での関係の総体である生産様式が社会的意識を制約し社会的存在としての人間の意識を規定するという
唯物論を説く。 憂鬱、不安、絶望は人間にとってどのようなものであるかを、神との関係を中心に考察し続ける。
個々の人間の葛藤や苦悩とは、生きている人間としてそれらに対峙するもの 精神的・世俗的に無秩序にある社会を再組織するために歴史的観察をし、
人間精神・学問は神学的段階から形而上学的段階をへて実証的段階に至ると捉え、
政治学を実証的段階にする 証法に基づく精神の展開による、主観と客観の統一が精神としてあらわれる形態として
国家、芸術、哲学を考え、壮大な体系を作り上げる。
精神は自然に埋没した段階、自由を意識した段階、特殊な状態にある自由から
普遍的な自由へと上昇した段階の3段階に発展する 知識が認識可能である根拠を探求する学として知識学を唱える。
確実な原則から体系へと論を展開し、非我により限定される
自我の知性を扱う理論的部門と非我による因果性でない、
因果性を生む努力を扱う実践的部門を示す。 認識能力を純粋理性、実践理性、判断力に区分してその働きと限界を示す三批判書を著し、
道徳的格律を中心に理性の働きによる人間の考察を行う。
「君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為 自然状態での自然的自由と無制限の権利の代わりに、
社会契約により市民的自由と道徳的自由、所有物の所有権を得る、と捉える。
国家の状況に適した政府の形態(民主政、貴族政、君主政、混合政府)、
一般意志の行使であり絶対的なもの 経験論を徹底して、理性は知覚による経験を超えたものを知ることはできず(懐疑論)、
因果関係は一種の信念であり、自我は知覚の束に過ぎず、理性は真偽を判別する情念の奴隷 抽象観念を否定し、次に知覚されない物体がそれとして存在することを否定し、
知覚するものである精神だけが実体としてあるとした。
更に想定される反論を検証・却下し、論の帰結として神の存在を説く 従来なされてきた演繹による真実への到達を否定し、
4つのイドラ(幻影、虚想)を取り除いて
現実の観察や実験を重視する帰納法による真実への到達を説く。
真理に基づく知識が自然を支配する力と経験論、近代合理主義につながる叡智 神は無限であるが人間は有限であるとの考えを基に、
人間の知性では神を把握できないと知ること(知ある無知)、
人間には矛盾し対立すると見えても神にとっては整合的で
同一であると見えること(反対対立の合致)を唱える。
神への信仰と人間の肯定という、中世と近代の思想が融和している。 人間は罪も欠陥もなく造られたが、原罪以後は悪を意志する自由しかもたなくなる。
善を意志しつつ行いえない苦悩は神の愛(恩寵)のみにより救われるが、
誰が救われるかは神により予定されており、教会を通して恩寵にあずかれる あらゆるものを超越した原理である一者から、
一者→知性→魂→自然と上位から下位へと
流出することですべてのものが階層構造をなして存在し、
下位のものは上位のものを観照する 声と音声的エクリチュールの特権性を、ソシュールの言語学を踏まえ
フッサールの現象学の批判をとおして示す。
意味作用は自分が発し自分が聞くという声における現前性に存在し、
記号を離れた純粋な思考の存在を前提とする形而上学への
批判を、差延、代補などを用いておこなう。 フランクフルト学派と実証主義論争を、クーンとはパラダイム論争をした。
論理実証主義に批判的で、反証可能性が理論・仮説の科学性を示し、
厳密な実験を生き抜いた理論ほど信頼性が高く、
科学的理論は反証されるまで暫定的に受け入れられているに過ぎないという、方法論的反証主義に立つ。 世界はある命題を真または偽にする事実を含んでいる、との見方に基づき、
世界を関係などをもつ複数のものに論理的に切り分けていくと
最終的に残る原子的事実とその関係項である個物に到達できると考えて、
命題と存在、記述理論、タイプ理論に添う 現実それ自体を認識できないとする点で認識論から、
価値・倫理の洞察から、影響を受ける。
方法論として理念型を用いて分析し価値判断から
離れることで社会学の客観性を確保する、価値自由論 意識の流れを純粋な持続として捉え、持続が実在であるとし、持続を生命進化に広げ、
持続から社会進化につなげ、それぞれ時間論、心身問題、生命進化、道徳と宗教について論じる 会を有機的にとらえ、精神、学問の進歩とその諸段階を示し
社会学を創始した『実証哲学講義』に代表される前期と、
人類教を唱えた『実証政治学体系』に象徴される後期に分けられ
精神と理論の発展を考察し哲学的土台の上に宗教的構想する 抽象観念を否定し、次に知覚されない物体がそれとして存在することを否定し、
知覚するものである精神だけが実体としてあるとした。
更に想定される反論を検証・却下し、論の帰結として神の存在を説く モナドとは、複合体をつくる単一な(=部分がない)実体のことで、空間的なものではなく、
神による創造によって生じた存在であり、「そこを通って何かが出入りできるような窓はない」。
そんなモナドの存在から、神の無限、完全性と人間の限界、不完全性を説く お、エディさん来てる
聞きたい事があったんだ
いつもコラする時に使ってるアプリ教えて? 気の心理学をその根源にまで押し進めれば、精神疾患を超克し、
これを消滅させうることにはならず、却って心理学そのものを破壊し、
理性対非理性という関係を再び明るみに出すことになるであろう。
この関係は本質的なものであるが、道徳化しえないから、心理学的なものではない。 狂気の心理学は本質的なものへと歩む。
なぜなら、自己の様々な可能性が互いに結びつく所へ、
それは漠然と向かっているからだ。
つまり、それは自己の流れを遡り、人間が自己と関係を持ち、
自己を心理学的人間たらしめる、
かの疎外の形を作り出す領域に向かって歩いている 人口概念とその調整を確保しうる機構とを関心の中心に置くようになる政治的な知の生成。
ここで問題となっているのは領土国家の代りに人口国家が置かれたということではなく、
力点が移動し、新たな目標が登場したということ、つまり新たな問題と技術が登場したということだ。 私たちが階級独裁、階級権力の独裁体制のもとに生きていることもまた明白ですが、
この独裁体制は、この暴力の諸手段が制度的で合憲的なものであるときでも、
それでも暴力によって課されるものなのです。そうなると私たちにとっては
民主主義の問題などないわけです ルソーは『告白』冒頭で「自己が今の自己になるのは時間の中でである」という
先見の明ある認識を力説した。彼が自分自身の成長に力点を置いていることは
マテシス・空間配置に基盤を持つ啓蒙時代のエピステメーから
十九・二十世紀初期のそれの構成原理たる時間性と因果性へと至る転換の鍵となる要素だ。 臨床診断〉中心の諸科学を示す略号で整理してもいいような事態の、
ほぼ十八世紀末における出現といった些細な歴史上の問題がある。
たとえば知の分野の中への個人の登場の問題、学問的言説の一般的な
運用の中への個別的記述や尋問調書や病歴口述書や〈一件書類〉等の登場の問題だ。 系譜学において起こっているのはまさに知の反乱です。
それは科学の内容、方法或いは概念に対する反乱というよりは
先ず何よりも、中心化しようとする権力作用、
私たちの社会の内部で組織される科学的言説の制度と
機能につきものの中心化する権力作用に対する反乱です。 生権力の過剰が生じるのは、生命を調節するばかりか、
生命を繁茂させ、生物を製造し、怪物を製造し、
究極には管理不可能で普遍的破壊力を持つウィルスを製造することが
技術的にも政治的にも人間にとって可能になる時です。
その時生権力は人間的な主権からはみ出してしまうでしょう。 自分達が絶えず発明し続けるあれら未聞の形象の内に出発・喪失・回帰といった古い神話、
またそれらと相関的な、〈他者〉になる〈同一者〉と根底では〈同一者〉だった〈他者〉という神話、
無限に伸びる直線でいながら同一の円環であることの神話を再発見 >>950
コラは全部べらぼうに作って貰ってるんだ。実は俺は作った事が一度もねーんだよ。
棒っキレに尋ねてみろやw 分かったら俺にも教えろ!いいな!これは命令だ! 比の人達の難船、彼らの救われた不可思議な装置や能力の全て、
祭の間に彼らが行うそれらの実演等は、カントレルの〈庭園〉の
孤独が尚一層強調することになるあの本質的無償性を象徴している。
これら未知の装置全ては、見世物としての反復と、同一物の回帰との
内にしか未来を持たない。 意図的な死によって、言語にとって内的な次元、即ち言語自身による言語の死刑執行、
そして自分の屍骸の粉々にされた光輝から出発しての甦りという次元を開きつつ、
毎日の言語の中の死ということの突然の空虚こそ、そして直ちに起こる星々の誕生こそ、
詩というものの距離を定義している。 かつて人間は〈存在〉との関係での〈無縁な者〉
―虚無と幻想とに生きる、愚カナル人間(非存在の空虚とこの空虚の逆説的な顕現)
だったが、今や人間は彼自身の真理の中に引き止められ、その事によってもその真理から遠ざかる、
自己との関係での〈無縁な者〉即ち疎外[=錯乱]者なのだ。 貧乏人〉とは、曖昧な概念、そこでは〈人間〉ということの豊富さと、
人類に本質的として認められる〈欠乏〉状態とが混ざりあっていた概念であった。
実際、〈貧乏〉と〈人口〉の間には、厳密に逆の関係が存在している。 理性が非理性から、狂気としての過ちとしての、或いは病気としての真理を引き出すために、
非理性に対して行使する統御は、理性と非理性との間の距離を打ち立てる区切りから
派生するものなのである。従ってこの原初の論争を、勝利も、勝利への権利をも
予想することなく語るべきなのだ。 構成的であるのは、狂気は分割する身振りの方であって、
その分割が一度成立し、戻った平穏の中で築かれる、科学の方ではない。
起源を為すのは、理性と非理性との間の距離を打ち立てる区切りである。 生命の認識は、真理や主体や認識の一般問題に依存する領域の一つにすぎぬと考えるべきか。
それともこの問題を別の仕方で提起するのを強いるものなのか。
認識は世界の真理に開かれているのではなく生命の「誤り」に根付いているとすれば、
主体の理論は新たに表現されねばならない。 自分の外部の何ものをも享受しない。自分と自分自身の存在以外の何ものをも享受しない。
その状態が続く限り、人は神のように自己充足する。 人々が理性に対して問いかけることができるのは、非理性の奥底そのものからである。
そして、現実的なものの存在と非存在とを、真実に等価な一つの幻想の中で
一つにまとめる妄想の眩暈によって、世界の本質を捉え直す可能性が開かれているのである。 〈規格的なもの〉は標準化された教育の創設と師範学校の設立に伴って
教育の場に強制権の原則として確立される。
またそれは健康の一般的な規格を権能させる性質を持つ、
国家的規模の医療団体及び救護施療上の規制を組織化するための努力の中でも、
産業界の生産方式並びに製品の調整の中でも確立される。 二元論とグノーシスとは、頻繁な拒否と断罪にも関わらず、
実際にはキリスト教における〈悪〉の概念に濃い影を投げかけてきた。
その二極的思考(神とサタン、光と闇、善と重さの霊等、大いなる闘争、
根源的で執念深いある種の悪意)は、我々の思考にとって
無秩序の秩序というものを組織してきた。 私は、構造主義に対して距離を取りつつ構造主義をなぞって二重化するような関係をもっている。
距離を取っているというのは、構造主義を直接に実践する代わりにそれについて語るからであり、
なぞって二重化しているというのは、構造主義の言語を語らずして構造主義について語れないからだ。 己から出発して表明され得るような人間の本質、
また、可能な認識すべての基礎であると同時に
認識の可能な限界そのものの基礎でもあるような
人間の本質を規定しようと試みる、
その時から、人は誤謬推理の只中にいるのです 研究の合理性、科学性、そして客観性が、研究の選択それ自体にしか根拠のないものである以上、
研究の有効性の実際の保証は非心理学的な方法と概念とに求められる以外ない。 啓蒙とは一つの時代であり、それも自らを指し示し、自分自身の標語や掟を自ら定め、
思考や理性や知の一般紙との関連において、また自らの現在や認識、知、無知や
錯覚の様々な携帯との関連において、諸々の制度などの為に自分が何を為すべきかを言う、
そうした時代だったのです。 現出面としての哲学、哲学者自身が属す現在性が持つ哲学的意味への問いかけとしての哲学、
そして哲学者自身がその一部をなし、それに対する関係によって自らを位置づけねばならない
「我々」というものへの哲学者自身による問いかけとしての哲学。
これが現代性の言説としての哲学を特徴づけるものです。 人間学の対象領域を一層拡張する為によその土地に何を期待すべきかを知っておきたいなら
仲間との交際を通して事前に故郷で人間知をものにしておかねばならぬ。
こうした旅の見取り図なしにはこれからの世界市民は世界市民に相応しい
人間学を築く上でいつまでも狭い視野から抜け出せぬ。 革命が再び起こるべきだが未だ起こらないという、現在のような歴史の側面において、
余分なものとしての我々とは、一体何なのでしょうか。
近代に思考の全体は政治の全体がそうであるのと同様、革命という問題によって支配されています。 論争家にとってゲームは、相手を発言する権利を持った主体として認めるということではなく、
可能な対話の相手としては否定しさることにあり、その最終目標は、
困難な真理に出来る限り近づくことではなく、彼が最初から振りかざしている正義に勝利させることです。 内感は純粋統覚、つまり人間が何をしているかの意識ではない。
というのも後者の意識が思考能力に属するのに対して、
内感は人間が自分自身の思考の戯れによって触発されている限りで
感じ取っていることの意識だからだ。 知性が感性が対立するからといって、両者の同一性を際立たせる為にベックが
経験するものdas Erfahrendeと呼ぶものの統一が脅かされることはない。
考える存在としての私は、感じる存在としての私と一つにして同じ主観である 想像力の中心に夢の意味作用を結びつけることで、実存の基本的諸形式を復原し、
実存の自由を明らかにし、実存の幸不幸を見定めることもできるだろう。 「性が抑圧されている」という考え方に基づく言説は、「抑圧されているという言表」と
「未来が予告されているという形式」が互いに照らし合い、相互に強化しあうことでその全体を形づくっている。
このエコノミー全体・言説的全体に対抗することが、現在の根源的な問題なのだ。 [私たちを分け隔てている]深淵は深く、私にはこれを除き去る方法がない。
しかし私たちは誰でも、この深淵に眩暈を感じることができるのだ。
それは私たちを魅惑することもある。この深淵は、ある意味死であり、
死は眩暈を起こさせ、魅惑するのである。 推論は自己固有の価値を否定しつつも、
推論をなす者のみならず推論に耳傾けるものをも想定するということだ。
私は自分の中に、この私などを超えたもの、私の同類者の特性を成すもの以外には
何一つとして見つけることはできない。 血で膨れた器官の充溢、生命の非人格的な充溢が目に見える形を示していたに違いない、と私達は推測することができる。
動物の非連続的な個体としての存在が、動物の死を契機として、生命の器官の連続性に席を譲るのである。 [生殖活動における]非連続から連続への過程の中で、活を入れられるのは基本的な存在の全体なのだ。
暴力だけが、暴力と暴力に結びついた名づけがたい混乱だけが、このように全体に活を入れることができるのである! かつての世界では、同じように、個人が理性のためにエロティシズムの充溢を断念するというようなことは無かった。
少なくとも一人の同類の人格において、一般的に眺められた人間性が全体の制限を免れることを願っていた。 非人称化の至高点においてこそ、誰かが名づけられ、自分の姓あるいは名を受け取り、
その人に属しかつその人が属するもろもろの<多>を瞬間的に把握して、最高の強度を孕んだ識別可能性を獲得する 幻想の世界とは、われわれが征服しえなかった世界である。
それは過去の世界であり、未来の世界ではない。
過去にしがみついたまま前進すること、
それは囚人の足枷を引きずって歩くことである。」
いきた見者、それはナポリの革命家の衣装を着たスピノザである。 欲望には対象が欠けている。したがって世界は、あらゆる対象を含んでいるのではなく、
少なくともひとつの対象を欠いている。それがつまり欲望の対象なのである。
したがって、欲望の鍵を所蔵する別の場所が存在する
この世界には、欲望の鍵が欠如している 器官なき身体はひとつの卵である。そこには、軸と閾、緯度、経度、測地線が縦横に走っている。
また生成と移行、そこに展開されるものの行き先を印づける勾配がいたるところにある。 精神分析は、一方において、今日では、精神病と呼ばれる諸現象がこの参照の枠組みをどれほど越えているか気づいていながら、
あいかわらず、オイディプス三角形という基盤から問題を提起しては、解釈を発展させているのだ。 あらゆる合理性の非合理を信ずるように、欲望そのものを信じているのだ。
欲望が、欠如、渇き、または憧れであるからではなく、欲望の生産であり、
生産する欲望であり、現実的欲望であり、またそれ自体現実的であるからだ。 神分析にとって治療するということは、無限の対話や無限の諦め、
また去勢による欲望の獲得を意味するからである
そしてまた、患者が独身、不能、オナニーでくたばるよりも、
むしろ患者自身が自分の子孫に病気を分散し移すことが
できるような条件を確立することであるからである。 分裂症は資本主義そのものの外的極限、つまり資本主義の最も根本的な傾向の終着点であるが、
資本主義は、この傾向を抑止し、この極限を拒絶し置き換えて、これを自分自身の内在的な
相対的極限に代えなければ機能しえない。 近親相姦は運動に似て、そもそも不可能なのだ。それが不可能であるのは、
現実界が不可能であるという意味ではない。
まったくその反対であり、まさに象徴界が不可能であるという意味である。 こうして女たちの身体には膣が釘づけにされ、男たちの間では巨大なペニスが共有され、
肛門のない身体に独立した肛門が割りあてられる。大食いの小咄は、こう始まる。
「口が死んでしまったとき、体の他の部分たちにたずねて、どの部分が埋葬を引きうけるか知ろうとした このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
life time: 164日 10時間 48分 12秒 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。