【電波的な彼女】片山憲太郎作品【紅】 5冊目
「ぐすっ、おにーちゃんはわたしよりおねーちゃんがすきなの?」
「うん。でも、ちーちゃんも夕乃さんと同じ位大好きだよ?」
「でも、わたしは愛人で、おねーちゃんは正妻なんでしょ?」
「今のところはそうなるかな?でも、ちーちゃん」
「?」
「ちーちゃんはまだ小さいし、これから色んな人と出会う筈だよ」
「もしかしたら俺よりもいい人がちーちゃんを好きになるかも知れないし」
「ちーちゃんが他の誰かを好きになる事もあるかもしれない」
まだ散鶴の人生は始まったばっかりだ。
夕乃や自分はこれからの人生を大人として過ごす事になる時期にある。
社会に出、職を得て毎日働くことになるだろう。
でも、散鶴は小学校を卒業すらしていない。
今の散鶴にとっては、真九郎と仲良くすることよりももっと多くの人と
出会って触れあって、色々な形の関係を築くことが何よりも重要なのだと
真九郎はわかりやすく説明した。
それでも散鶴は納得がいっていない様子だったが... 「もしちーちゃんが高校生になっても俺の事を好きでいてくれたら」
「その時は、責任をとってちーちゃんをお嫁さんにするから」
「だから、その時までちーちゃんは友達を沢山つくること。いい?」
「約束だよ?おにーちゃん」
「うん。約束する」
心の底から安らいだ表情を浮かべた散鶴と指切りを交わした真九郎は
傍らに控える冥理に散鶴を預け、正面に立つ法泉に向き直った。
「師匠、冥理さん」
「崩月の家を飛び出した不祥の弟子ですが、ようやく覚悟が決まりました」
「夕乃さんを俺に下さい。俺は夕乃さんのことを愛してます」
今まで自分を育ててくれた二人の親に深く頭を下げた真九郎だが、
当の二人は表情を変える事なくその続きを無言で促す。
そして、真九郎の後に続くように夕乃もまた母と祖父に向かって
深々と頭を下げ、自分の本心を言葉にして二人に伝える。 「おじいちゃん、お母さん。私は真九郎さんと結婚したいんです」
「崩月の家の宿命とか、裏十三家の血筋とかそういうのじゃなくて」
「私は真九郎さんを幸せにしてあげたい。この人と一緒になりたいんです」
「真九郎さんとの仲を認めて下さい。お願いします」
将来の義理の息子とその傍らに立って歩いて生きたいと望む自分の娘。
本人達が好き合って結ばれたいというのなら、母親としてそれを祝福しない
訳にはいかない。
しかし、『崩月』としての答えはまた別である。
「真九郎、崩月の一人娘と添い遂げる上でだ」
「崩月を継ぐという事の意味をはき違えちゃいねぇよな?」
「人殺しの業を後世まで伝える義務もある」
「いざとなれば家族を守る為、多くの人間を殺す必要も出てくる」
「真九郎、お前に...その覚悟はあるのか?」
崩月の一員となる以上、許されざる業の継承者としてこれからの人生を
真九郎は生きていかなければならなくなる。
人殺しを生業とする家業で多くの人達を殺めてきた崩月家が買った
怨みの総数は数え切れないほどある。
その技術を継承するということは、かつて自分の家族と多くの罪無き
人達の命を奪ったテロリストと同じ存在にまで成り下がる事に他ならない。
おそらく、ここが真九郎にとっての最後の分水嶺。
引き返すも引き返さないのも自由に決断できる最後の瞬間だ。
「俺は...」
一瞬だけ脳裏に浮かんだ幼なじみの笑顔に詫びて、真九郎は改めて
法泉に向き直る。 「俺は引き返しません。どんなことがあっても夕乃さんを守ります」
「ちーちゃんも、冥理さんも、師匠も。俺が絶対に守ります」
手放したモノの価値を悼みながら、それでも真九郎は止まる事無く
前に進む事を決意した。
人でなしに墜ちながらも、それでも真九郎は自分が出来る事を選びとる。
「夕乃さんやちーちゃんに人殺しなんか絶対させない」
「だから、師匠。俺に崩月の業を教えて下さい」
「俺が、俺の護りたい人達を護る為の技を教えて下さい!」
「その言葉に、嘘はないな?」
「ありません」
「...わかった」
「そこまで覚悟を決めてんなら徹底的にお前を鍛える」
「もう一本お前に角を移植してから、また修行を一からやり直す」
「夕乃!」
「はい!」
「子作りはほどほどにな」
「...はい」
「あと、初孫の名前は俺につけさせろ」
「わかりました。でも変な名前にしないで下さいよ?」
「おう。ちゃんとお前が納得する名前にしてやらぁ」 十数年前に産んだ娘がまさか学校を卒業する前に結婚相手を見つけ出すとは
予想外だったな、と愛する孫娘を茶化す父の姿を見て冥理は涙ぐんでいた。
真九郎も引き取ってきた時に比べれば、随分成長したなと懐かしく思える。
生きる意味も無く、ただ死にたくないからという理由で生きながらえていた
あの少年が崩月の家を出た途端、途方もない大事に巻き込まれながらも、
なんとか切り抜け、己の人生に生きる意味を見いだしたというのが、冥理と
法泉にとっては本当の我が子のように嬉しく思えた。
「真九郎君。夕乃。本当におめでとう。祝福するわ」
だから、二人が幸せになれるなら私達親は結婚を認めよう。
それが冥理と法泉の親としての答えだった。
「真九郎。夕乃との結婚は俺も冥理も反対はしねぇよ」
「好き合った女と男同士、末永く幸せになればいい」
法泉はそう言い残し、客間から立ち去っていった。 背を向けて立ち去る一家の大黒柱に真九郎と夕乃は深く頭を下げた。
そして散鶴も渋渋ながら自分が出る幕はないと悟ったのか、泣きべそを
かきながらふすまを開け、祖父の後を追うように自分の部屋へと戻った。
「真九郎君。紫ちゃんは夕乃より手強いわよ?」
「お母さん...」
「夕乃、選択を間違えないようにしなさい」
事の顛末を全て知りながら、あえて言葉にすることなく立ち去った法泉の
懸念を冥理は真九郎と夕乃に伝え、その場を後にする。
言わんとすることは分かっている。
だがしかし、ここで紅真九郎は退くわけにはいかない。
(だって、俺が...俺だけが紫の味方なんだから)
アイツと出会って、初めて自分の心の弱さと向きあえた。
あの小さな手を取って、俺は自分の殻を破ることが出来た。
今度は俺の番だ。アイツを本当の意味で九鳳院から出してやる。
誓いも新たに真九郎は前を向いた。 「真九郎さんの気持ちは嬉しいです...でも私は鬼の娘ですから...」
「くれぐれも他の女に手を出すときは気をつけて下さいね?」
「私、相手の女が真九郎さんの子供を孕んだら殺しますからね」
「物騒なこと言わないでよ...夕乃さんの手が血で汚れるなんて嫌だよ」
「本気です!」
「真九郎さんは無意識のうちに女をその気にさせる天才なんですから!」
口元に浮かべた苦笑いを夕乃が咎める。
分かってるさ、自分が下した決断がどれだけ酷いかくらいは。
でも、それでも...俺は貴女のことを愛してる。
だから、これだけは言わせて欲しい。
「夕乃さん」
「なんですか、真九郎さん」
「貴女より弱い俺だけど、いつか必ず貴女を護れる位強くなります」
「だから俺の手を離さないで下さい。いつまでも俺に嫉妬して下さい」
「ずっと俺のことだけを見つめていて欲しい」
「俺が好きなのは、ありのままの夕乃さんだから」
言われた側から臆面も無くいけしゃあしゃあと夕乃をくどく自分に
内心あきれながらも、それでもこれが俺の本心なんだと開き直る。
夕乃も真剣な自分の警告をここまで逆手に取られては、最早呆れを
通り越し、真九郎に惚れ直すしかないと観念したのだった。
ありのまま。なんて、そんな上手いことを言われてしまえば
信じたくなってしまう。いや、絶対に信じ切ってみせる。
それが、夕乃の真九郎に対する愛なのだから。 「ええ。その約束、確かに守ります。それに、信じてますから」
「真九郎さんが世界で一番愛しているのはこの私だって」
「ありがとう。大好きだ、夕乃さん」
本当に、本当に長い長い遠回りだった。
迷い続けた分、明日からはまた新しい世界がきっと開けるだろう。
でも、夕乃の心の中には、なんの苦労もなく真九郎を手に入れる
紫に対しての反感は未だに残っているわけで...
「やっぱりちーちゃんは認めても、紫ちゃんは認められません!」
「真九郎さん。負けませんからね!」
ぷくーっ、と頬を膨らませる最愛の人を真九郎は抱きしめる。
「夕乃さん。明日、市役所に行って婚姻届取りに行こうか」
「本当ですか?!」
「デートしよう。揉め事処理屋の仕事は...キャンセルでいっか」
「やったぁ!!」 明日は学校だが、もうそんなのどうでもいいや。
今は楽しめるだけ、自分に与えられた青春を満喫しよう。
命短し恋せよ若人。難しいことはとりあえず後回しでいこう。
「夕乃さんは可愛いなぁ。よし!決めた」
「これからは徹・底・的に夕乃さんを甘やかす!」
「きゃ〜〜〜〜!真九郎さん大好き!もう最高です!」
そして、夕乃と真九郎は二日間不眠不休でお互いを貪り合った。
余談だが、散鶴はその後二週間真九郎と夕乃と口を利かなかったそうな。
「おにーちゃんとおねーちゃんなんかはぜちゃえ...」
妹の口から飛び出た辛辣な一言に夕乃と真九郎は頭を悩ませることに
なったのだが、それはまた別の機会にということで。
最終回 紫の嫁入りに続く 更新乙です
夕乃さんやちーちゃんはどうにかなったけど、紫は説得が難しそう
どうなるか注目ですね 〜紫の嫁入り 前編〜
4日後 学校
「真九郎さん。お昼食べましょう」
「そうだね。屋上行こうか」
何のことはない日常の1ページ。
それが音を立ててビリビリと破かれる瞬間に立ち会ったとき、
人は呆然と立ち尽くすしかない。
「嘘...なんで、紅君が崩月先輩と付き合ってるの?」
「え、崩月先輩あんなのが趣味なのかよ...」
「嘘、だろ...」
学校一の大和撫子と付き合っている相手は影の薄いパシリ生徒。
そんな奴いたっけレベルの存在感の相手に対して、愛おしそうに
手を絡め、体をすり寄せる夕乃のデレっぷりときたら... 「夕乃さん。恥ずかしいよ...皆の目もあるから控えめに...」
「イヤです。自重するのはもう辞めました。聞きません」
「これからは爛れた二人だけの青春と愛の性活を過ごすんです!」
「『お姉ちゃん』お願いだから、自重しよ?ね?」
「!!」
「も、もう...仕方ないですねぇ...真九郎がそう言うなら」
風呂敷に包んだ三重の弁当箱が持ち主の感情を素直に反映する。
嬉しげに揺れる弁当箱と幸せそうに微笑む真九郎。
羨望と嫉妬と、あと危険な視線を一身に集めながら真九郎と夕乃は
廊下を歩き、誰もいない屋上へと上がっていった。 屋上
フェンスの近くにあるベンチに腰掛けた真九郎の膝の上に夕乃が乗っかる。
決して小さくはないが、その温もりをより味わう為、真九郎は
自分の正面へと夕乃の座る向きを変える。
「我慢、出来なくなっちゃったんですか?」
「ううん。我慢する必要なんかもうないんだ」
「夕乃さん、だっこ」
真九郎にまたがる夕乃はその頼みに即座に応じる。
自分の左胸に真九郎の耳を押しつけ、その上から真九郎が安心して
眠れるように頭から腰までを滑らかな手つきで撫ではじめる。
柔らかく、そして温もりたっぷりの夕乃の胸に顔を埋める真九郎。
その顔はとても幸せそうで安らいでいた。
「はふぅ...幸せぇ...」
二人のうち、誰が呟いたか分からない言葉の続きは真九郎のポケットから
鳴り響いた携帯電話の着信音で掻き消されそうになった。 「...」
その瞬間、夕乃の目からハイライトが消えた。
真九郎のポケットから携帯電話を取りだし、電話をかけてきた相手を
確認する。
案の定、その相手は村上銀子だった。
通話ボタンを押し、黙って自分の耳に真九郎の携帯を押し当てる
「...もしもし」
「...」
「真九郎...ふざけてるの?」
「...」
「はぁ...仕事の資料渡すから新聞部の部室に今すぐ来なさい」
「...」
ナンダ、コノオンナハ...
そうだ、そう言えばこのオンナは真九郎がもう誰の恋人になったのか
まだ知らないんだった。
なら、思い知らせてやらなければ... 「夕乃さん。銀子には手を出さないでね」
「真九郎さん...でも...」
通話ボタンを切った真九郎は、恐ろしい威圧感を撒き散らす夕乃に
怯えることなく普通に釘を刺した。
「ちゃんとお別れは自分の口で伝えなきゃ意味が無い。そうでしょ」
「これが俺の一応最後の仕事だからさ。ちゃんとしたいんだ」
「分かりました。真九郎さんがそう言うなら、従います」
渋々ではなく、笑顔で真九郎を信じる夕乃に真九郎は危うさを感じた。
『浮気したら、その女を半殺しにしますからね』
『私、相手の女が真九郎さんの子供を孕んだら殺しますからね』
あの日に夕乃が自分に打ち明けた事が、現実問題として絶対に、
必ず起るという懸念がまさに的中するところだった。 「全く、真九郎さんは罪作りな人ですね」
「夕乃さんには負けるよ。可愛くて純粋で男タラシの罪作りな夕乃さんには」
「なっ。私はそんなふしだらでもなければ男タラシでもないですっ!」
「そうかなぁ?サッカー部の主将が夕乃さん好きだって噂、有名だよ」
「私はあんな人好きでもなければ、眼中にもないですっ」
「そっかぁ。そうだよね。夕乃さんは俺だけの女なんだから...」
夕乃の背中に爪を突き立て、今まで夕乃にも見せたことのない
独占欲を見せ始める真九郎。
夕乃は真九郎を縛り、真九郎は夕乃を縛り付けて離さない。
ついにここまで真九郎の心を独占するのに成功した夕乃は心の中で
狂喜した。
紫や散鶴は例外として、現在真九郎と一番相性が良いのは間違いなく
自分であるという確信が夕乃にはあった。
「じゃあ、村上さんの所に行く前にお昼を食べちゃいましょうか」
「今日のお弁当は結構美味しいわよ」
「ありがとう。夕乃お姉ちゃん」 「はい。あーん」
「あーん」
昼間から豪勢な夕乃の手作りの料理を頬張る様を本当に嬉しそうに
眺める夕乃は、更に甲斐甲斐しく自分の箸で鮭の切り身を真九郎の口に運ぶ。
真九郎も夕乃と付き合う前は、こうした『女の夢』というものに対して
抵抗感を抱いていたものの、いざ心を通わせ恋人として付き合い始めると
なかなかどうしてこれがとても心地良い。
自分の食べる様を見て恋人が嬉しそうに笑ってくれる。
それだけで胸と心の空白が瞬く間に埋められ、癒やされていく。
本当にこの人は自分を愛してくれているんだと確信できる。 「ふふっ...美味しいですか」
「うん。夕乃さんの料理はいつも美味しいよ」
「ふふーん。そうでしょうそうでしょう」
「なんて言ったって真九郎さんへの愛が一番籠もっていますから」
「じゃあ、今度は俺が夕乃さんのお弁当つくってあげる」
「まぁ。じゃあその時はちーちゃんと一緒にピクニックに行きましょうか」
食べ盛りの真九郎が夕乃の手作り弁当を平らげるまで僅か15分。
その間に夕乃も自分に作った弁当を素早く食べ終える。
「ごちそうさまでした」
「はい。おそまつさまでした」
雲が散らばっているものの、よく晴れた気持ちの良い晴れの日の午後。
重箱を片付ける夕乃を見遣りながら、真九郎は空を見上げた。
「どうしたんですか?空なんか見上げて」
「え。ああ。今日の夜は星が綺麗かな〜って」
「そうですね。今日の夜は月も星もよく見えるはずですよ」
適当な話題を夕乃に振りながら、真九郎はこれから訪れる幼馴染との別れを
想像し、心を痛めた。
しかし、これから自分がやろうとすることに銀子と銀子の家族までも
巻き込む訳にはいかない。
(銀子...)
放課後 新聞部部室
最後のHRの終了後、真九郎はいつものように新聞部の部室へ向かう。
誰も部員がいない部室のたった一人の主は、いつもの場所にいた。
「遅い。何してたのよ」
「悪い。夕乃さんと一緒にお弁当食べてたんだ」
「はぁ...また崩月先輩?」
「また、ってなんだよ」
「不潔」
「......」
その主は、果たして真九郎の変化に気が付いていただろうか?
夕乃のことを不潔と言い放ってパソコンの画面に向き直った彼女は
好きな男が自分が最も嫌う女に奪われたと言う事に....
「銀子、今回の仕事の前にさ...これ、今まで払ってなかった情報料」
「...なに、って...。え?ちょっと、これどうしたのよ...」
「?」
まるで信じられないものを見るかのように真九郎を見つめる銀子。
何事もなかったように平然としている真九郎。
この状況でそれが手遅れだと気が付いたときには、既に打てる手が
ないという現実が待ち受けていることを受け入れられない自分がいた。 「ん?46万円ものツケをどう一括払いする算段をつけたかって?」
「えーっと杉原さんの一件で使ったヤクザの組があるんだけどさ...」
「そこの内部でちょっとしたゴタゴタがあったんだ」
「で、そのゴタゴタをなんとかしてくれって俺に直接連絡が来たんだよ」
「アンタ...なに勝手なことを...」
「ああ、銀子が心配してるようなことはしてないよ」
「で、その揉め事を解決して50万貰ったんだ」
今まで真九郎のやろうとすることの真意が分からなかった事はなかった。
誰にも害されることのない強さを得る為に、紅香に弟子入りした。
九鳳院という巨大なシステムに虐げられている紫という少女を守る為、
彼は九鳳院に弓を引き、自分はその助けになるべく手助けした。
だが、今回の一件は全く真九郎の真意が見えない。
確かに真九郎にもそれなりに伝手はあるのだろう。
しかし、それはあくまでも小さなものであって、そんな数十万もの大金を
気前よくポン、と渡すようなパイプや組織とはつながりが.... (あった...)
(一つだけ、あった)
脳裏に浮かぶ、世界の裏を牛耳るどす黒いまでに大きなあの組織。
不幸なことに自分はそこに務める悪党どもを知ってしまっている。
「まさか、真九郎...アンタ、悪宇商会と手を...」
「組んでないって。はぁ...誤解を招いて悪かったよ」
「奥さんが浮気している現場に依頼人を連れて行く」
「それが今回引き受けた俺の仕事だよ」
「後は、奥さんや間男が逃げないように見張るのも仕事に入ってたっけ」
「尾行と証拠写真と実働と時給を全部合わせたら結構な額になったんだよ」
「そ、そう...」
釈然としない心を無理矢理納得させた銀子は真九郎が抱えていた
借金を一応、清算したのだった。 「これ、今回の資料」
「うん。ありがとう」
必死になり震えを隠そうとする銀子だったが、それは無理な話だった。
いつもと変わらぬ風を装っている真九郎だが、その背後から漂ってくる
血腥い鮮血の匂いが、自分の知っている幼馴染がもう引き返せない所にまで
足を踏み入れていることを教えている。
もう、自分では引き上げることが出来ない所まで真九郎は墜ちている...
「別れた元旦那のストーカー行為を止めさせて欲しい...」
「行動パターン...動機は親権と復縁による遺産の...」
「依頼内容、対象者を二度と家族に危害を加え...って何すんだよ銀子」
慌てて依頼者からの依頼書と資料を取り上げた銀子は、いつもなら
絶対しないような作り笑いを浮かべ、真九郎の興味の矛先をずらしはじめた。
「や、やっぱりこの依頼はなし!アンタじゃ経験不足よ」
「ええっ?ストーカーとか嫌がらせとかはそれなりに経験して...」
「割の良い仕事だと思ったんだけど、やっぱり危険すぎるわ」
「相手は柔道の有段者で元外人部隊の100kg超の黒人よ」
「アンタみたいなもやし、すぐに粉々にされるのがオチよ」 この時ばかりは、依頼者の所持する圧倒的暴力が頼もしく思えた。
だが、銀子はあまりにも簡単な事を失念していた。
真九郎が『崩月』だということを..
そして、崩月はあと一人この学校にいるという事を....
心の整理がつかない中、必死に真九郎に何が起ったのかを頭を
フル回転させた銀子が辿りついた、考え得る限りで最悪の結末。
待って、なんて一言も言わせない無慈悲な真九郎の言葉が銀子へと
一斉に襲いかかった。
「銀子、あのさ」
「今回の仕事が終わったら、暫く揉め事処理屋は休業するよ」
「なんで...?」
「俺、崩月を継ぐことにしたんだ」
「うそでしょ...」
幼馴染に抱いていた淡い恋心が粉々に粉砕された。
好きな人がいた...
その人は、頼りなくてとても脆い心の持ち主で、でもとても優しい人。
素直になれないけど、いつかきっと素直な気持ちで彼に自分の想いを
伝える筈だった。
なのに...どうしてどうして彼は私をおいてどこかに行ってしまうの?! 「なんでよ!!アンタあれだけ暴力が嫌いだったじゃない!!」
「揉め事処理屋を辞めるなら一緒にラーメン屋やっていこうって...」
「それなのに!どうして!!」
「どうして...私のこと、待ってくれなかったのよ...」
「銀子は、何も悪くないんだ。悪いのは全部俺だよ」
「意味わかんないわよ!」
「大体何度も言ったようにアンタに揉め事処理屋なんて向いてないのよ!」
「アンタもう一杯辛い思いしたじゃない!」
「何度も危険な目に遭って、その度に死にかけて私がッ...」
「私とッ...一緒に日の当たる世界で、一緒にラーメン屋をやってこうって」
「銀子...」
喚き、錯乱する幼馴染と距離を取り、指一本触れようとしない真九郎。
銀子は気が付いていないが、恐るべきは真九郎の冷静さである。
一時期は家族、兄妹同然に育った仲の幼馴染の嘆きに対して悲痛な
表情を浮かべるどころか、眉一つ動かさないまでの冷淡さは、普段の
優柔不断な真九郎を知る人物の目から見れば大事に値する。 なぜなら、それは...
真九郎が日の当たる世界を拒んだことに他ならないからだ。
人の命が蝋燭の灯火のように軽く吹き消され、血と怨嗟と暴力の
屍山血河の世界こそが自分の身の置き場。
「分かった...崩月先輩に誑かされたんでしょ、ねぇ!」
「ならお気の毒様ね、アンタじゃ無理よ。器じゃないわ」
銀子はそれでも、それはもう見ている方が目を覆いたくなるような
醜態を曝しながら、真九郎にすがりつくことをやめなかった。
なんとかして好きな男の目を幼馴染として覚まさせてやりたい。
いや、違う。
今の銀子を突き動かしているのは、真九郎への恋心ただ一つ。
だって、自分はまだなにも真九郎に想いを伝えていない。
これからゆっくり真九郎と仲を深めて...それなのに...。
銀子の慟哭を受け止めながら、真九郎は断固たる決意を以て
自分がどこへ向かうのかを彼女に伝える。 「銀子の言いたいことは痛いほど分かる」
「でも、さ...」
「サラリーマンとか畑を耕す自分を俺は想像できないんだよ」
「まぁ、例外としてラーメン屋は選択肢にはいってたけどね」
「じゃあ、いまからでも...」
「それは無理だ」
自分を覗き込む真九郎の瞳には、今までの真九郎を構成していた
要素以外の...昔からの真九郎を知っている銀子が忌避してやまない
決定的なものが映っていた。
そう、暴力への渇望と上に昇り詰めてやるという飽くなきまでの野心だ。
「銀子」
「自分の器なんて、後から大きくするもんだろ?」
「あ、あああ...」
「それに、夕乃さんのことを悪く言うのはやめろ」
「正直に言うと、銀子のそういうところは好きじゃなかった」
「そ、そんな...」
メラメラと燃える真九郎の野心の熱気に当てられた銀子は力なく
ぺたん、と床にへたりこんでしまった。
いつの間にか夕日は沈み、月と星が顔を覗かせる。 「...絶交よ。アンタなんか、もう...顔も見たくない」
もう、真九郎の心の中に自分はいないという絶望的な事実に気が付いた
銀子は真九郎を睨み付け、絶交宣言をした。
今の銀子の目には、真九郎がかつて自分達を攫った人身売買組織と
全く変わらない存在にしか見えなかった。
「...銀子、俺は必ず大きくなる。誰にも負けない位強くなる」
沈鬱な表情を浮かべた真九郎の本心は、果たしてどこにあるのか。
しかし、真九郎を失った悲しみと怒りが彼女から正常な判断力を、
そう、銀子の武器である判断力を奪ってしまっていた。
ここで、真九郎を新聞部の部室から外に出してしまえば、もう自分は
夕乃から真九郎を取り返すことが出来ないということに気がつけないほどに。 「帰ってよ!この人でなし!!」
「私利私欲の為にこれから多くの人を傷つけ、殺しまくるんでしょ!」
「出てって!出てけってばぁ!!」
銀子に背を向け、感情任せにその拳に叩かれている真九郎。
分かっている。
自分のエゴで...紫以上に銀子を優先できるかと問われ、即座に紫を
選んでしまった時から、こうなることは予想が出来ていた。
既に死んでしまった家族以外で、自分をよく知る幼馴染をこんな形で
傷つけ、切り捨てるようなそんな形でしか別れを告げられなかったのか?
もっとましな別れ方はなかったのかと自問せざるを得ない。
だが、事ここに至っては、もう何も言うまい。
「行かないでよ...ねぇ」
銀子が言いかけた言葉を最後まで聞くことなく、真九郎は勢いよく
新聞部の扉を引き、そのまま部室を後にした。
「待って!待ってぇええええ!真九郎ぉおおおおお!!!」
長い廊下を歩く真九郎の背中に、短い悲鳴だけが追いかけてきた。
真九郎は、足を止めることなくそのまま星領高校を出て行った。 高校から五月雨荘に戻るまで、携帯電話が鳴り止むことはなかった。
着信履歴100件とメールが156通。
我ながらよくもまあここまで酷いことを幼馴染みに出来た物だと
乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
メールの内容を見ると、まだ間に合うから裏社会の闇に染まる前に
とっとと縁を切りなさいからに始まり、最後はお願いだからちゃんと私の
話を聞いて、こんな形でアンタと別れるのはイヤという内容で終わっていた。
乗り継ぎの電車が来るまでの間、夕乃は銀子から来るメールと電話の
着信音に悲痛な表情を浮かべていた。
真九郎もこれ以上無いほどの後味の悪い別れ方を銀子とした為、
今も絶えず後悔の念に苛まれ続けている。
でも、後悔はしてもやりなおそうとは思っていない。 「正直な話、心が痛いですよ」
「銀子の俺への想いが分からないわけじゃなかった」
「だけど、いつかはこうなることはわかりきっていたのに...」
「もう、良いじゃないですか。真九郎さん」
「真九郎さんには私とちーちゃんと紫ちゃんがいます」
「もっと欲を言えば貴方には私だけを見ていて欲しいんです」
「でも、村上さんにはその覚悟がなかった。腕力も無ければ覚悟もない」
「それで好きな人が別の人とくっつくのは納得いかない」
「なんて、今更喚かれても、私は真九郎さんを手放す気なんかありません」
「だって私は貴方に恋した瞬間から、貴方を生涯の伴侶と決めたんですから」
夕乃の発言のその根底には一歩間違えれば、自分がこうなっていたかも
しれないという一種の諦観と、なんとしても真九郎を奪った相手から
なにをしてでも必ず奪い返すという怨念めいた憎悪が見え隠れしていた。
真九郎を初めて好きになった八年前から夕乃はその覚悟を胸に、
真九郎の側にいた。彼を想い続け、行動に表して自分の気持ちを伝え続けた。
だから真九郎は夕乃を好きになった。
今回の銀子の失恋は、ただ今のままの心地よい関係に甘んじて夕乃ほど
真剣に真九郎に向き合わなかっただけの結果でしかない。 「次は〜○○〜○○行の電車が...」
あれほど鳴り響いていた携帯電話のバイブレーションがいつの間にか
鳴り止んでいた。
ホームに滑り込んできた電車が口を開け、乗客達を吐き出し始める。
「じゃ、また明日学校で」
「ええ。愛してます。真九郎さん」
電車に乗った夕乃を見送りながら、真九郎は漫然と、もう村上家の
敷居をまたぐことは出来ないと思っていた。
しかし、これで銀子はもう自分がらみで命の危険に晒されることは
なくなった。
たとえそれが自分の自己満足だったとしても、銀子には自分が歩くことを
やめた日向の道を、彼女を幸せに出来る誰かと一緒に歩くという権利を
取り戻したことがせめてもの救いだったな。と、自分をごまかしながら
真九郎は五月雨荘へと歩き出し始めた。 五月雨荘
紅真九郎が五月雨荘の自室に戻ったのは午後六時を少し過ぎた所だった。
おんぼろになったドアを開け、自分の部屋に入ると、そこには
小さな天使がいて、自分にほほえみかけていた。
「真九郎!遅かったな。お帰りっ!」
「ああ。ただいま紫。一週間ぶりだね。元気だった?」
「うむ。真九郎に会えなかったのは寂しかったが、それも吹き飛んだ」
「そっか。ほら、おいで。だっこしてあげる」
左手は紫を離さないように、右手で紫を愛するように真九郎は
その小さな身体を包み込んだ。
「し、真九郎...///どうしたというのだ?」
「どうしたって、何が?」
「そ、その...て、照れる。と、とにかく照れるのだ!」
小さな手と足をパタパタと暴れさせる紫は、珍しいことに顔を
赤らめながらも、嬉しそうな表情を浮かべ、真九郎が離れるまでその体に
自分を押しつけながら、抱きついていた。 「真九郎。今日はどうしたというのだ?」
「なにか良いことでもあったのか?」
「いや、むしろ逆...かな。だから、紫に...それを、忘れさせて欲しい」
紫の笑顔に、銀子の泣き顔が重なり真九郎は声を詰まらせた。
紫も今まで笑顔だった真九郎が泣き出しそうになるのを見ていられず、
とっさにその涙をハンカチでぬぐい始めた。
「銀子ぉ...銀子......」
もう二度と取り返しのつかないことをしてしまった罪悪感に耐えきれず、
真九郎は遂に泣き出してしまった。
「ごめん...。ごめん、ごめんなぁ...」
「ううむ、こ、困った。おい、真九郎。泣くな」
「私は泣いている真九郎よりも、笑っている真九郎の方が好きなのだ」
「...でも、泣きたいほど辛いなら、いくらでも私が受け止めてやる」
「さぁ真九郎。好きなだけ私の胸で泣くが良い」
「そして、泣き止んだら私にお前の悩みを聞かせてくれ」 七歳の紫に、今の真九郎が抱えている途方もない大きさの悩みを
正しく判断できるわけがなかった。
崩月を継いだ上で、交わることのない表と裏の禁を破り、九鳳院の
一人娘を奪い取ろうとする、そんな大それたことに自分が愛する女を
巻き込もうとするのだ。
折角、蓮丈が紫を奥の院から出す決断を下したのに、その決を
翻して、また紫が昔に逆戻りする可能性だって捨てきれない。
しかし、それ以上に恐ろしいのは紫が自分が近い将来そうなってしまう
という可能性を踏まえた上で、真九郎に己の未来を委ねることだった。
紫の未来を奪いたくない、でも紫を奪われたくない。
それが真九郎を苦しめ続ける。
実現しない可能性の方が大きい無謀な企みのせいで、既にかけがえのない
友を失ってしまったのだ。
誰でも良い、自分を止めてくれ!
そう思いながら真九郎は紫の胸で泣き続けた。 午後7時 五月雨荘
一時間近く泣き続けた真九郎は、泣き疲れてそのまま紫の胸に
抱きつきながら眠りに落ちてしまった。
「うんしょ、うんしょ。ううむ重いな、真九郎の体は」
布団を敷き、その上に真九郎の体を引きずりながら乗せ、学生服を
剥ぎとりパジャマに着替えさせる。
(しかし、どうして真九郎はあんなに泣いていたというのだ?)
九鳳院紫にとって紅真九郎は相思相愛の相手といえる。
紫には真九郎が必要で、真九郎には紫が必要である。
紫が困っているときに真九郎は手を差し伸べてくれたし、また真九郎が
困っているときには紫が手を差し伸べて今まで上手くやってきた。
どんな窮地に陥っても決して諦めずに、弱さを見せることなく悪漢や
変えられない宿命と戦ってきたあの真九郎が感情を露わにして、TVに
出てくる女のように泣きわめいたことに紫は内心驚いていた。
(そう言えば環が言っていたな。真九郎は女に弱い男だと)
(そして、真九郎より強い女は...うう、一杯いるではないか...)
小さな頭をひねりながら、紫は真九郎が泣きわめいていた理由を
探っていた。
もし、環の発言が正しいとすれば紫には真九郎を泣かせた相手の見当が
いくつもつく。 一番怪しいのは言うまでもなく夕乃で、二番目に怪しいのはやたらと
威圧感はあるが自分を奥の院から出してくれた恩人の紅香である。
3,4に環や闇絵が続くものの、あの二人はなんだかんだ言って
真九郎には優しい気がするから外しても良いだろう。
となると、真九郎を泣かせた犯人は...
「夕乃だな。やはり夕乃はとんでもない女だ」
崩月夕乃。
紫の恋敵にして、とうとう真九郎の恋人になった女。
幸い、まだ真九郎は眠り続けている。
「...よし、夕乃に電話するか」
ちゃぶ台の上に置かれた真九郎の携帯電話を片手に取り、紫は
夕乃の家の電話番号を引っ張り出し、躊躇うことなく発信ボタンを押した。
「はい。崩月です。どちら様ですか....」
五秒後、おどおどとした声が紫の耳に飛び込んできた。
「む。私だ。九鳳院紫だ」
「あぅ...」
「その声は散鶴だな。夕乃はどうした?」
「ううう...」
「今すぐ夕乃を呼んでこい!真九郎のことで話がある」
「あの、どんなご用...ですか?」
「良いから早く夕乃を呼べ!お前では話にならん!」 夕乃とは対照的にどこまでもうじうじした散鶴の泣きべそに苛立つ
紫だが、散鶴もそれは同じで真九郎とは対照的に威圧的で偉そうな
紫に反感を覚えていた。
はじめはいつも自分に対して威張っている紫に対するちょっとした
仕返しのつもりだった。
真九郎はもう紫だけの真九郎ではないと、つい口を滑らせてしまった。
「紫ちゃんはおにーちゃんからなにも聞かされてないんだね」
「おねーちゃんと私はもうおにーちゃんのおよめさんなんだよ」
「なんだと?!今の発言はどういうことだ散鶴!」
「おにーちゃんは私の家に学校を卒業したら戻ってくるもん!!」
紫も七歳だが、散鶴は更にそれより二歳年下の五歳である。
小さい頃に年上のお兄さんとの結婚の約束をガチで信じ込んでしまう
純粋無垢なお年頃なのである。
そして、本当に性質の悪いことに真九郎はその場の雰囲気に流され、
八割ほどは本気だったが、散鶴のことも受け入れるつもりだった。 「おにーちゃん、おねーちゃんにコクハクしてたよ」
「世界で一番おねーちゃんがダイスキですって!」
「う、嘘だ!真九郎がそんなこと夕乃に言うはずがない!」
「嘘じゃないもん!」
「嘘だ!」
「嘘じゃないもん!」
「嘘だ!」
「嘘じゃないもん!」
受話器越しに怒鳴り合う小学生と幼稚園児。
傍から見ればほほえましいことこの上ないが、彼女達はまがりなりにも
九鳳院と崩月の直系の娘達である。
たとえそれがまだ善悪や対人関係の複雑さに責任を持てない歳であっても
そのやりとりが周囲にばらまく影響は計り知れない。
あまりにも見苦しい紫の反発に、ついに頭の中にあるリミッターが
吹き飛んだ散鶴は、姉とよく似た黒い微笑みを浮かべながら電話の向こうの
紫に怒濤の口撃を仕掛けていった。 「なっ、何を言うか!真九郎と私は相思相愛で...」
「でも今すぐケッコンは無理だよね」
「そっ、それは...」
「うっ、ぐすっ...だ、黙れ散鶴!し、真九郎が一番好きなのは、この...」
「おにーちゃん、おねーちゃんを下さいっておじいちゃんに言ってたよ」
散鶴の最後の一言で心をくじかれた紫はへなへなと崩れ墜ちた。
そして、とどめの一撃が紫に突き刺さる。
「ふふふ...おにーちゃんはおねーちゃんの恋人。だから...」
「紫ちゃんはもうウワキ相手だね」
「あああああああああ!!!!」
あまりのことに耐えきれなくなった紫は壁に自分の携帯を投げつけ、
粉々になるまで机の上に置いてあった文鎮で叩きまくった。
「む、紫?おい、何やってるんだ!」
紫の絶叫に何事かと跳ね起きた真九郎は、畳の上で粉々になった
小さな携帯電話に絶句した。 「うわああああああん!夕乃と散鶴の大馬鹿ものーっ」
「何してるんだ紫!どうしたんだよ!」
この時、真九郎は紫が自分と夕乃の間にあったことを知った事に
気が付いてしまった。
そして、紫の大号泣にいかに自分が浅はかで最低なことを崩月家の
皆に対してしでかしたのかを自覚した。
ボロボロと大粒の涙を流す紫は顔をグシャグシャにしながら、懸命に
残酷な真実を告げた携帯電話を原形を留めなくなるまで破壊し続ける。
(ああ...そうだよな。俺、やっぱり最低じゃないか...)
「離せ〜!離すのだ真九郎!」
「夕乃と真九郎が結婚するなんてありえない!あり得ないんだ〜!」
何も知らない紫の悲痛な叫びに、真九郎は心を引き裂かれながら、
それでも懸命に紫が自分から離れないように、抱きしめ続けていた... 〜夕乃の視点〜
明日の真九郎さんのお弁当の仕込みをしているときに、電話が鳴った。
おそらく電話の主はおじいちゃんの友達か、町内会の人だろう。
「ちーちゃ〜ん。お電話出て〜」
「はーい」
散鶴はどうせ人見知りだから、電話を取ったらすぐに涙目になって私に
バトンタッチするだろう。そう思っていた。
でも、珍しいことに散鶴は五分たっても私の元に戻ってこなかった。
おかしい。
人見知りなあの子が私に電話の応対を任せずに、見知らぬ他人の話を
五分近く聞いていられるわけがない。
真九郎やおじいちゃんならともかく...
「まさか...!」
見知らぬ他人ではないが、散鶴が知っている他人なら心当たりがある!
私は慌てて廊下に飛び出し、電話へと走っていった。
角を曲がってそのすぐ目と鼻の先に、妹は確かにいた。
だけど、状況は既に手遅れだった。 「ふふふ...おにーちゃんはおねーちゃんの恋人。だから...」
「紫ちゃんはもうウワキ相手だね」
「散鶴ッ!」
妹を押しのけ、電話の受話器を取る。
「紫ちゃん?!紫ちゃん!!」
今一番知られたくない相手に、よりにもよって真九郎とのことを
バラしたのが自分の妹だなんて、正直な話、信じたくなかった。
受話器の向こうから聞こえて来たのは、無機質な雑音だけ。
おそらく紫は今頃ショックを受けているはずだ。
昔の真九郎ならいざ知らず、銀子を捨てて精神的に不安定になっている
今の真九郎であれば、紫を説得できない可能性も在る。
「くっ!」
時計を見ると、時間は七時過ぎ。
今から駅まで行けば30分程度で五月雨荘に着けるはずだ。
(行かなきゃ!真九郎さんと紫ちゃんのところに...)
そう思った私は、急いで玄関の方へと向かおうとした。
でも... 「おねーちゃん!行っちゃダメ!行っちゃやだよぉ!」
妹が、あの泣き虫だった妹が賢明に通せんぼうをして、私の目の前に
立ちふさがった。
「ちーちゃん...良い子だから、ね?そこをどいて」
「やだぁ!」
「おねーちゃんは...私とおにーちゃんだけのおねーちゃんなんだもん!」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。
「ぐすっ、ぐすっ...」
「紫ちゃんは、紫ちゃんのお家で仲良く家族で住めば...いいのに...」
「どうして私から、大好きな人をとっていっちゃうの?」
「不公平だよぉ...ずるいよぉ...」
紫の家のこと、彼女の出自のこと、彼女がそう遠くないうちに
迎えるであろう恐ろしい未来のこと。
この時ばかりは、私は何一つ伝えなければならないことを何一つ
目の前の妹に伝えられない自分を呪いたい気分だった。
何より恐ろしいのは、この国の誰よりも高貴な家柄にいて、誰よりも
高貴な血筋を受け継いでいるのにも拘わらず、九鳳院紫という少女は
人ではなく、人の形をしている『道具』でしかないという事実だ。
そして、散鶴はそのことをまだ理解できない。 理解できないが故に、散鶴の抱いている感情は最も正しい。
人権すらない『道具』を人として扱い、この先の人生を共に過ごす事が
どれだけのリスクと危険を犯さなければならないのか。
それを自覚できないまま真九郎は紫を、これから彼女が独り立ちが
出来る歳まで守っていく役目を担おうと言うのだ。
紫と散鶴を天秤にかけたとしても、絶対に散鶴を選ぶのが夕乃の本心。
しかし散鶴の視点から見れば、崩月がわざわざ抱え込まなくてもいい
リスクを抱え込み、毎日が命を狙われるような危険な日々を過ごす羽目に
なるのは絶対に看過できない。
なぜなら、真九郎は紫が要るにもかかわらず、既に夕乃と散鶴を
選んだからだ。もう、そのことに対して真九郎は言い逃れは出来ない。
九鳳院(恋人)を取るのか、それとも崩月(家族)を取るのか。
今、崩月夕乃は大きな岐路に立たされていた。
〜紫の嫁入り 中編(仮)に続く〜 〜紫の嫁入り 中編〜
散鶴の涙に大きく自分の心を揺さぶられながらも、夕乃はそれでも
懸命になって、なんとか妹を説得しようと試みた。
だが、どう考えても今すぐに散鶴を説得できる力を持った言葉や
想いが中々浮かばない。
どうにかして、一刻も早く真九郎が紫を失って立ち直れなくなる前に
五月雨荘へと行きたいのに、夕乃の足は全く動かない。
(何をしてるんですか!妹なんて後から説得すればいいじゃないですか)
(ダメ!散鶴を放っておけば、きっと真九郎さんみたいになっちゃう)
(自分は大好きな人に選んでもらえなかった悪い子だって苦しんじゃう!!)
いまの夕乃が思っていたことは、まさに散鶴にとってその通りだった。 内気で人見知りの妹。
まだ物事の分別がつかないけど、あの子は自分によく似ていてどこか
危ういくらいにまで思い込む癖がある。
これは散鶴自身の純粋さの裏返しともとれるし、同時に一番の弱点でもある
だから自分と異なる他人と打ち解けられない。打ち解けられないけど、
やっぱり一人は寂しい。でも他人は怖い。
そんな悪循環の中に現れたのが紅真九郎。
どこか散鶴に似ていた真九郎は、同時に孤独だった散鶴にとって、
一番近い心の距離に踏み込んできた初めての他人だった。
家族同然の他人だが、母や姉と同等の愛情を注いでくれる初めての異性に
孤独を打ち明けられない『子供』が恋するまでに時間はかからなかった。
だから、夕乃は今まで自分と一緒の時を過ごしてきた時間と思い出を
踏まえた上で、素直に正直に自分の気持ちを散鶴に打ち明けた。 「ちーちゃんは私よりも真九郎さんを幸せにしたい?」
「...うん」
「そっか。真九郎さん、優しいもんね。独り占めしたいよね?」
「...うん...」
「でもね、ちーちゃん。それはお姉ちゃんも紫ちゃんも同じなんだよ」
「同じじゃ、ないもん...」
「お姉ちゃんは私のお姉ちゃんで、紫ちゃんは他人だもん」
「お姉ちゃん、言ったもん。私とちーちゃんだけのおにーちゃんって」
くすん、と鼻を啜りながらも散鶴はあくまでも夕乃と自分だけが
真九郎の側にいる資格があるのだと、その意思を姉に伝えた。
夕乃もその気持ちを痛いほどに分かっている。
だが、それではダメなのだ。 「ちーちゃん。ちーちゃんは何が怖いの?」
「紫ちゃん」
「どうして?」
「だって...乱暴だし、いつも偉そうで...上から目線でイヤなんだもん...」
「でも、でも...おにーちゃんはそんな紫ちゃんが私より好きで...」
「おねーちゃんまで...紫ちゃん好きになったら、一人に、えぐっ」
「わたし...一人になっちゃうよぉ....!」
「やだやだやだぁ!紫ちゃんにお兄ちゃん取られるのはイヤなのぉ!!」
ようやく散鶴の口からその本心が飛び出してきた。
まだ家族と離れることが出来ないうちに、自分をおいて大好きな
大好きな兄と姉がいなくなる恐怖に散鶴の心は耐えられなかったのだ。 その上、自分と同じ歳くらいで大人のように振る舞い、自分の全ての
何段階も上を行く紫が、真九郎が夕乃を愛するのと同じ次元で互いの将来を
誓うという事実をどうしても散鶴は認められない。認めたくなかった。
だって、それを認めてしまえば...自分は一生紫や夕乃のおこぼれに
あずかりながら、指をくわえて真九郎の側にいることしか出来なくなると
もう分かってしまったからだ。
だけど、それはあくまでも散鶴の心の問題でしかない。
夕乃の心は最初から最後までぶれることなく一徹している。
その証拠に妹を見つめていた眼差しから一切の温もりが消え去った。
「ちーちゃんの気持ち、よーく分かった」
「うん」
「でもね、私はちーちゃんほど弱虫じゃないですよ」
「ひぅ...お、おねーちゃん?」 そう、崩月夕乃は最初から自分が真九郎に最も相応しいと思っている。
好きな男を自分の手元に縛り付ける為にはなんだってする。
流石に大切な家族を犠牲には絶対させないが、それ以外のことなら
真九郎を自分の側から離さない為なら何だってする覚悟がある。
真九郎が望むなら、七面倒くさい表と裏の利権が絡み合う紫と自分との
事実上の重婚にだって目を瞑るくらいの寛容さはある。
しかし、それを邪魔するのなら誰であれ殺す。
真九郎の心を開いたあの日、彼が自分の胸に飛び込んできた喜びは
一生心に残る自分だけの宝物だ。
なぜならそれは九鳳院紫でもなく、村上銀子でもなく、この自分こそが
初めて紅真九郎の心を開き、全てを手に入れた証なのだから。
その自負と八年間の燃え滾る激烈な恋慕の前には、散鶴の心痛など、
単なる負け犬の負け惜しみでしかない。いや、それ以下だ。
だから、夕乃は目に狂気を滲ませながらも、いずれ自分を超えて見せろと
心の底から大切に思う妹へと発破をかける。 「散鶴。真九郎さんの側にいたければ崩月の修行をちゃんとしなさい」
「いつまでも弱虫の貴女には何も魅力なんか生まれっこありません」
「修行したら、おにーちゃんは私のこと好きになってくれる?」
「もうとっくに真九郎さんはちーちゃんのこと、大好きになってますよ」
「そっか...えへへ」
「だから、私と貴女とで紫ちゃんに見せつけてあげましょう」
「崩月の娘は九鳳院に負けないくらいいい女なんだ、って」
「だから、これからは紫ちゃんに怯えないで前を向きなさい」
「約束よ?」
散鶴は無言のまま頷き、姉が握った拳の先から出た小指に自分の
小指を絡ませ、大好きな姉を見送る。
「行ってらっしゃい。お姉ちゃん」
「行ってきます」
玄関を飛び出し、風のように走り出す姉の背中を見ながら散鶴は
いつか自分も姉のように強くなりたいと思い始めていた。
「そう、だよね...いつまでも、弱虫じゃダメだよね...」
だから、もし紫が崩月の家に来たらちゃんとさっきのことを謝ろう。
その上で、改めて紫に宣戦布告をしよう。
紫ちゃんには負けないもん、と... 午後八時
一方、九鳳院紫は騒ぎを聞きつけた闇絵と環の取りなしによって
一旦二人が落ち着くまで、それぞれ預かるという形で引き離されていた。
紫は闇絵、真九郎は環。
「ううう...真九郎のバカ、大馬鹿ものぉ...」
ポロポロと涙を流しながら、闇絵に抱きしめられた紫はぼんやりと
今までのことを思い出していた。
柔沢紅香によって奥ノ院から連れ出され、初めて外の世界を知ったこと。
自分の人生を大きく変えてくれた紅真九郎と出会ったこと。
真九郎といる内に、自分の中にある何かが大きく変わったこと。
沢山の人間と触れあう内に、もっと世界を知りたくなったこと。
危険な目に遭いもしたが、その度に真九郎が自分を助けてくれたこと。
人は一人で生きていけないが、同時に愛がなければ孤独のままだ。
これが、九鳳院紫が外の世界で学んだ一番の教訓だった。
辛いこともあれば、楽しいこともあった数ヶ月だと思う。
だが、それが揺らいできている。 崩月夕乃。
かつて飛行機事故で家族を失った真九郎を自分が生まれる前から
8年もの間、ずっと真九郎と寝食を共にし、絆を育んでいた女。
そして、その崩月の力に紫は何度も窮地を助けられてきた。
だから、婉曲な見方をすれば紫は夕乃に恩を受けていることになる。
その夕乃こそが、今回の紫が我を忘れて取り乱すような事態を
引き起こした張本人だからこそ、紫はどうしても真九郎に対して
自分の本心を打ち明けることが限りなく不可能になってしまったのだ。 九鳳院紫は紅真九郎を愛している。
それは生を受けたときから、光当たることなく一生を終える宿命の紫に
生きることの素晴らしさや、自分では抗うことの出来なかった運命を
意図も容易く、我が身を省みることなくぶち壊してくれたただ一人の
男だからだ。
恋はとても素晴らしい。紫の母親は彼女にそう言い残して死んだ。
紫もそう思う、と彼女は心の中で母に答えを返した。
誰かを好きになることで、前を向いて生きる気力が湧いてくる。
真九郎を好きになることで、もっと彼のことを知りたくなる自分がいる。
この恋は、今まで自分が体験してきたどんなことよりも、素晴らしく
また大きな変化を自分と真九郎にもたらしてくれた。
にもかかわらず、真九郎は中々自分に振り向いてくれない。 理由は分かっている。
真九郎ほどいい男は他にいない。
自分の他にも彼と一緒に添い遂げたいと願う女が沢山いることも
理解している。
夕乃、銀子、切彦...環と闇絵はまぁ、アレだが。
とにかく付き合ってみれば分かるが、紅真九郎は魅力的だった。
しかし、だとすれば...
(私は、真九郎の一体なんなのだ?)
護衛対象?好きな女?それとも放って置けない存在?
真九郎を好きなままでいられた時なら、考えなくても良かった
面倒くさいことが、次から次へと頭の中に浮かんでくる。
(分からない!分からないのだ!どうすればいい、なぁ?!)
真九郎!
だが、その心の声が本人に届くことはなかった。 「少女よ。君は...恋は素晴らしいと話していただろう?」
いつまでも泣き続ける紫を見かねたのか、闇絵は少しだけ紫の中にある
懊悩を解きほぐしてやろうかと思い、その腰を少し上げた。
紫も、その鷹揚な態度にいつもの自分を若干取り戻したのか、
どうしても晴れない自分の心のもやもやを少しずつ打ち明け始めた。
「うむ。だが、いまは...どうしてもやりきれなくて辛いのだ」
「ふむ、なぜかね?」
「その理由は...ええい!私にも、なぜだか全くわからん」
「真九郎の朴念仁!どうして私の気持ちに気が付いてくれんのだ」
「ふっ。まだまだ青いな」
「なにぃ!」
「青いさ、少なくとも自分の心に嘘がつけない時点で君は幼い」
「?私は七歳だぞ」
「そう。そして君の恋も君と同じ歳のようにまだ青く、未熟だ」 「どうしてだ!!なぜ、闇絵はそんなことを言える?」
「君の倍ほど生きていれば、いくらでもそういうことは言えるさ」
「楽もあれば苦もある。山もあれば谷もある」
「君も少年も、今が一つの山場といえるな」
「歩け。考えろ。そうして答えをいくつも出して人は前に歩くのだ」
紫が答えを返す前に、闇絵は薬缶からマグカップに紅茶を注ぎ
紫にそれを勧める。
「少女、それを飲んで、落ち着いたら部屋に戻るがいい」
「少年とて好きな女に喚かれ続けたら気が滅入るだろう」
「うむ。そう、だな。ありがとう、闇絵」
家を飛び出し、電車を乗り継ぎ五月雨荘の最寄り駅に着いたのが午後八時。
「真九郎さん...」
そしてこれから紫に対し、自分の中ではっきりとさせたいことを頭の中で
整理しながら、夕乃は五月雨荘へと急いでいた。
真九郎が巻き込まれた紫のいざこざの一応の顛末を夕乃は知っている。
紫は現当主の温情で一応、奥ノ院を出、九鳳院の一員として現時点は
扱われている。また社会を学ぶという名目で小学校に通っている。
しかし、それはあくまでも一時的な物でしかない。
紫の存在意義はつまるところ、子供を産む九鳳院の道具。
あの柔沢紅香とて、紫の一生に対して最後まで責任を負うつもりは
おそらく無かっただろうと夕乃は推察する。 真九郎はそういう物事の裏を見ないで、ただ単に紫という少女の
境遇があまりにも哀れで、助けられずにはいられないという理由で
無謀な賭けに出て、奇跡的に成功したに過ぎない。
だから夕乃は紫に九鳳院の道具としてではなく、一人の自分という
『個』としての本心とこれからどうしたいのかを見定めなければならない。
もし、真九郎を自分だけの便利屋かなにかと勘違いしているなら
即刻真九郎から引き離さなければならない。
紅香も、紫とその母親との依頼を完全な形で果した以上はまた九鳳院と
事を構えて、紫を九鳳院から奪おうなどと考えていないはずだ。
色々なことを考えている内に、夕乃の足は五月雨荘の前で止まっていた。
腕時計を見ると、時間は8時23分。
「......」
真九郎の部屋には明かりが灯っていない。
どうやら長い話し合いになりそうだと、夕乃は心の中で嘆息した。 「真九郎...戻っているのか?」
「ああ」
「そうか」
環と闇絵。
二人のそれぞれの助言を得た紫と真九郎は部屋に戻り、どちらが
言うまでもなく、互いの体を寄せあう。
最早ここまでくれば余計な考えや言い訳は不要だった。
ただ、言葉を重ね、互いの想いを一つにすれば良い。 「真九郎。さっきな、散鶴から電話があったんだ」
「散鶴の奴、真九郎が自分と夕乃の男だと私に言い放ったんだ」
「うん」
「それでな、散鶴は真九郎が夕乃に愛の告白をした」
「崩月の家の人間はそれを祝福したとも言っていた」
「それは、本当なのか?」
「ああ。本当だよ」
「ッ...嗚呼、恋が敗れるというのは、こうも辛いのか...」
「紫、でも俺は、紫が好きなんだ!」
「信じてくれ!俺は、お前が...お前が俺を救ってくれたから...」 「ああ。勿論だ」
「ふふ、信じるとも。真九郎は私に嘘をついた事は一度も無いんだからな」
「聞かせてくれ、真九郎。夕乃をどうして選んだのかを...」
「...俺は、ずっと悩んでた」
「最初は夕乃さんに押し倒されて、そこから体の関係でずるずるいって」
「幸せだった。愛しているって、俺が大好きだって、そう言ってくれたから」
「でも、耐えられなかった...」
「夕乃さんが、他の男と一緒になるのが凄くイヤになったんだ!!」
「他の男に抱かれて幸せな顔してる夕乃さんを想像したくなかった!」
「俺に世界で一番愛しているって言ってくれる人を失いたくなかった!!」
「分かってる!分かってたんだ全部。紫の気持ちも夕乃さんの想いも!!」
「夕乃さんを抱いている時でも、お前の顔がいつも脳裏によぎった」
「でも止められなかった...」
「止められなかったんだよ!!苦しかったんだ!」 「なぁ...紫。俺は、どうすりゃいいんだよ」
「...ごめんなぁ。真九郎。お前はそんなに私を想ってくれていたのか...」
「つくづく私は果報者だな。お前に謝るのは私の方だ。すまぬ」
「はぁ...しかし夕乃は本当に重くて面倒くさい女だな」
「そんなにガチガチに縛れば真九郎が潰れてしまうではないか」
「でもな、真九郎。私は今、あまり怒っていないのだ」
「自分でも意外なことに、心が落ち着いている。なぜだか分かるか?」
「.......」
「お前の口から私と『別れる』という言葉が出てこなかったからだ」
「夕乃の色仕掛けは卑怯な手だが、それはまぁ許す」
「そういうことを真九郎に出来なかった私が悪かっただけの話だ」
「紫...」 「真九郎。お前はまだ、私に恋をしているか?」
「ああ。ずっと恋しているし、もうとっくに惚れてるよ」
「そうかそうか。ふふん、夕乃の奴め。詰めが甘いな」
「まぁこの調子だと、真九郎にあやつも泣かされた筈だ」
「そして、真九郎が夕乃を泣かせられるたった一つの理由、それは」
「この私だ!」
「む、紫...お、お前...どうして、そんなことが分かるんだ?」
「女の勘と真九郎と私が両想いという事実がなによりの証だ」
「は、ははは...敵わないなぁ、紫には」
「うむ。当然だな」 「だが、な...真九郎。今から聞く質問には真剣に答えてくれ」
「お前と出会ってからの数ヶ月、大変な事が沢山あった」
「竜士兄様のこと、理津のこと、切彦のこと、そして夕乃とのこと」
「その度に私もお前も窮地に陥りながら、なんとか切り抜けてこられた」
「真九郎の言葉とその想いに私は何度も救われた」
「だから、真九郎」
「真九郎が私に掛けてくれた言葉を、私は信じてもいいんだな?」
「ああ。その全部が俺の本心だ」
「そうか。なら、もう私は...何も怖くない」
紫はそこで一旦言葉を切り、ドアの向こうを凝視した。
「そこにいるのだろう。夕乃。話をしよう」
意を決した真九郎と紫が見守る中、遂に最後の扉が開かれた。 午後九時
「こんばんは。紫ちゃん」
「こんばんはだな。夕乃」
静かに扉を開け、真九郎と紫の部屋に入ってきた夕乃は真九郎を
一瞥することなく、ただ紫だけを見つめていた。
「真九郎さん。私は今から紫ちゃんとお話しをします」
「貴方がいると言いたいことも言えないので、外で待っていてください」
「分かりました」
「真九郎。話が終わったら電話するからな」
「自分の携帯を壊したのは一体誰ですかね?」
「し、しまった!」
慌てる紫に笑いかけた真九郎は、そのまま部屋を出ていった。 「ねぇねぇ真九郎君。紫ちゃん一人にして大丈夫なの?」
「夕乃ちゃん。今までに無いくらいヤバい感じで極まっちゃってるよ?」
「分かってます。でも、俺は夕乃さんのこと信じてますから」
「まぁ、真九郎君がそういうならいいんだけどさ〜」
廊下で事の顛末を見守る環と二、三言葉を交わした真九郎は、二人の
話し合いの邪魔にならないよう、五月雨荘から出て行き、夜の街中へと
歩き出していった。
真九郎が五月雨荘の門から出て行ったのを確認した紫と夕乃は
小さなちゃぶ台を挟み、顔をつきあわせた。
紫と夕乃の最終対決、まず先に口火を切ったのは紫だった。
「夕乃よ。真九郎とのことを話す前に一つ聞かせて欲しいことがある」
「なんですか?」
「夕乃は私のことをどう思っているのだ」
「どう思ってるって、それは...」
「恋敵か?それとも表と裏の因縁ある家系の子供か?」
答えにくい質問をする物だと、夕乃は心の中で苦笑した。
夕乃個人としては、紫の事を真九郎を巡る恋敵として認めている。
が、
「その聞き方であれば、恋敵でしたね。昔は」
「真九郎を手にした今は?」
「それが...分からないんです」 「真九郎さんを手に入れた後、貴女のことを伝えられました」
「貴女を手に入れる為に、私に自分と名字を一緒にしろと」
「私の懇願を最後まで撥ねつけた上で、貴女を捨てられないから、と」
「最後まで貴女の未来に対して責任があると、貴女を案じていました」
紫の質問に淡々と答えながら、夕乃は真九郎が自分に言い放った
言葉をかいつまんで紫に伝えた。
紫も真剣な表情で夕乃の一言一句を聞き漏らすまいとしていたが、
やはり真九郎と両想いだということが、よほど嬉しかったのか、時折
微かな笑みを浮かべていた。
それがまだ紫が真九郎を諦めないという心から来ているのか、あるいは
既に自分と真九郎の心は一つなのだと勝ち誇る心から来ているのかを
夕乃自身が知る術はなかった。 「そうか...。夕乃よ、だとすれば私は貴女に謝らなければならないな」
「すまぬ。私のせいで夕乃の心を深く傷つけてしまった」
紫は真九郎の本心が本当だった事に安堵しながらも、同時に自分の
せいで夕乃の恋が成就とはほど遠いものになったことを薄々感づいていた。
自分が他人の人生の足を引っ張ったことに対する責任の取り方を
紫はまだ知らない。
だから、精一杯の気持ちを込めて紫は夕乃に頭を下げた。
「よして下さい。そんなこと言われたってちっともうれしくありません」
頭を下げた紫を見つめながら、まるで苦虫を噛みつぶしたかのような
表情を浮かべた夕乃は、遠慮無く紫の謝意を否定した。
私のせいで、という紫の言葉に腹立たしさを感じたのもあるが、
やはり一番は、最後まで真九郎と自分の恋路の邪魔した紫への
冷たい怒りが夕乃の癇に障って仕方がなかった。
心の中から湧き上がるどす黒く、冷たい衝動に己の心を委ねながら
夕乃は言葉を選ぶことなく、紫を痛めつけ始めた。
紫も、先程までとは異なる異様な雰囲気に包まれた夕乃に思わず
萎縮しながら、懸命にその怒りを受け止めようと姿勢を正した。
おそらく、これが夕乃の心の闇。
そう見当をつけた紫は腹を括り、夕乃と向き合う覚悟を決めた。 「もっと簡単にいきましょうか。私は、貴女のことが憎いです」
「好きか嫌いか、と聞かれれば...そうですね、やっぱり嫌いです」
曖昧に濁された質問の答えを、あえてはっきりと断言した夕乃の瞳には
情の一欠片も残されていなかった。
人間味を一切廃しながらも、半端でない程の強烈な怨みの感情が
紫の無防備な心を叩き潰そうと一斉に襲いかかる。
「後から出てきて、私が生涯の伴侶と決めた真九郎さんを掻っ攫い」
「関わらなくてもいい事にまで首を突っ込ませ、死なせかけた」
「貴女が奥ノ院にずっといれば、真九郎さんは私だけを見てくれた」
「これが私が貴女を憎む理由」
夕乃の放つ恐ろしい負の感情の前に、紫は恐怖の涙を流した。
だが、心の底では夕乃が自分を憎む理由も理解できていた。
真九郎が家を出て一人で暮らす前は、夕乃が真九郎にとっての
心の支えだったのだろう。家族を失った真九郎が在りし日のように
心からの笑顔を取り戻すのはとても困難な事だったはずだ。
それは、真九郎の心の闇に踏み込んだ自分が一番分かっている。 「嫌いな理由というのは、これは私の個人的な感情ですけど...」
「同族嫌悪的な感情を私は貴女に感じています」
「同族、嫌悪?」
「私は、あまり自分を夕乃と似ていると感じたことはないが?」
やっとのことで絞り出したその声は夕乃の耳に届くことはない。
「愛する人の為に、自分を捨てられるか、あるいはどれだけ尽くせるか」
「!」
「また、自分以外の女に真九郎さんを絶対に渡さないという覚悟」
「今の貴女は否定するかも知れませんが、じきにそうなります」
紫は今この時ほど、相手の嘘を見抜く己の直感力の高さを恨んだことは
なかった。
自分に対して、あらんかぎりの否定の言葉を投げつける夕乃の顔が
いつの間にか能面から一人の女に戻り、悔し涙をボロボロと流している。
真九郎無しの人生なんて考えられない。
なのに、なんで真九郎は、私だけを見てくれないのだろう。
考えていることは同じでも、真九郎と紫によって夕乃にもたらされた
事実はあまりにも残酷過ぎた。 「でも、一番は、私よりも先に真九郎さんの心を手に入れたから」
「これが私が貴女を嫌う理由ですね」
「そうか...」
そう、夕乃に言われなくても全部理解しているのだ。
自分が奥ノ院の宿命から逃げたせいで夕乃は苦しんでいる。
真九郎の心の痛みも、弱さも、悲しみも全部受け入れて、共に歩く
未来の為に必死になって、夕乃は真九郎に尽くしてきた。
そして、その努力が実るあと一歩というところで、自分が
真九郎の心を癒やしてしまった。
結果、皮肉なことにそれが真九郎が紫を好きになる決定打となった。
紫もこの偶然に巻き込まれたことで、真九郎への恋が芽生え、自身の
運命すら変えることになったのだ。
夕乃でなくても、こんな酷い仕打ちがあっていいものだろうか。
いや、そんな道理はどこを探しても見当たらない。
「単刀直入に言わせて頂きます。紫さん、真九郎さんを諦めて下さい」
「あの人と名を同じくするのは私だけでいいんです」
故に夕乃は、目の前にいる全ての元凶から真九郎を取り戻そうと
必死になっていた。 例え、紫の心が砕けようと夕乃が止まることはない。
何故なら今の夕乃は恋に狂ってまともな精神状態ではないのだから。
「貴女が真九郎さんと添い遂げようとすると、また軋轢が生じます」
「わかりやすく言うと、九鳳院の九割が今度は真九郎さんの敵になります」
「崩月を預かる身としては、これ以上の厄介は抱え込みたくありませんが」
「まぁ貴女の二番目のお兄さんは喜々として真九郎さんを嬲るでしょうね」
九鳳院竜士。
かつて自分を犯そうとした、実の兄にして卑劣漢。
あの一件の後、外国に留学という名目で九鳳院から放り出されたが、
どうでもいいプライドだけが肥大したろくでなしが、自分をボコボコにした
真九郎に対して抱く感情と言ったらただ一つしか無い。
「そんなこと!」
夕乃の言う自分と真九郎が迎える最悪の未来も絶対に起きないという
保障も可能性もどこにもない。
否定したいのに、今の自分にはそれを覆すことができない。
紫は夕乃の言葉に虚勢を張るしかなかった。 「いいえ。今度ばかりはそうなります」
「だって、貴女が人質に取られれば真九郎さんは何も出来なくなるからです」
「そうなる前に、貴女は現実を知るべきでは?」
「くっ...だが、そ、そうなるとはまだ決まったわけでは...」
「なら、今度は自分から進んで九鳳院の役目を果すと?」
「私としても、それが一番いいなぁとは考えましたけどね」
「でも、貴女。死にたくないでしょう?」
「正確に言えば、真九郎さんと死で引き裂かれるのが怖くて堪らない」
何も出来ない自分の非力さをあざ笑うかのように夕乃は紫の選択肢を、
一つずつ理詰めで潰していく。
紫が考えて、実際に彼女が今からでも実行できる解決策を否定する。
「ううっ...ど、どうしてそんな事ばかり夕乃は私に言うのだ...」
「言ったでしょう。私は貴女のことが憎くて嫌いなんだって」
「......」
「どうしたんですか?黙っていては話が先に進みませんよ?」
これ以上無いほど卑怯なやり方で、夕乃は徹底的に紫を否定し続けた。 「夕乃は、卑怯だ!」
「私だって本当は九鳳院みたいな所に生まれたくなかった!」
「普通の家庭に生まれて、普通の家族と普通に過ごしたかった!」
「友達を作って!好きな人に恋をして!楽しいこと一杯やって!」
「家族が一人も欠ける事無く、全員で仲良くしたかった!」
「そんなことを叫んでも、現実は変わりませんよ?」
夕乃は酷薄な笑みを浮かべながら、紫の心の叫びを一蹴し続ける。
だが、紫は未だに真九郎のことを諦めない。
それが、夕乃の心を更にかき乱し、苛立たせる。
紫の心をへし折って、二度と崩月に近寄らせないようにするつもりが、
いつのまにか、その瞳の中にある嘘偽りのない想いに絆されそうになる。
(いえ、そんなことはありえません...)
(だって、私は...真九郎さんは『裏十三家』なんですから...)
頭を振りながら、これ以上紫を否定しないでくれと心で泣く自分を
無理矢理に心の奥底に封じた夕乃は、最後の仕上げとばかりに
紫に向き直って、トドメを刺しにかかった。 「貴女は九鳳院で私は崩月の一人娘」
「そして真九郎さんは私達崩月が育て上げた戦鬼」
「いずれ、あの人は近いうちに望もうと望むまいと人を殺める筈です」
「どこかの財閥と関わったばかりに...なんてことでしょう」
「夕乃...お前....!!」
遂に一線を越えた発言をしてしまった夕乃に対して、今まで否定
されるがままだった紫も、冷静さをかなぐり捨てて激昂した。
「さぁ、それでも貴女は変わり果てた真九郎さんを愛せますか?」
「貴女を救う為に、貴女の家族を殺そうとする殺人鬼を」
声を詰まらせながら、それでも懸命に夕乃は虚勢を張り続けていた。 夕乃が真九郎を信じるように紫もまた真九郎のことを信じている。
優柔不断ですぐに泣くが、本当は誰よりも弱さに逃げずに立ち向かう
勇気を持つ男。紫にとって真九郎はそんな男だった。
だから、迷うことなく自信を持って答えを出せる。
自分は真九郎を信じるという、たった一つの真実を。
「私は...真九郎が人を殺そうとするなんて想像したくない」
「だが、私は...」
「自分が助かりたいが為に家族を見捨てるような選択はしない!!」
「真九郎が私を救う為に、家族を殺すというなら私が死ぬ!」
「どんな真九郎でも私が好きになった真九郎はたった一人だ!」
「断じて、易々と人を殺すような殺人鬼ではない!」
「真九郎は変わらない!だから!私は真九郎を愛し続ける!」
「夕乃!お前もそうだろう?!そんな真九郎が大好きなのだろう?!」 完敗だった。
ここまで堂々と高潔に、純粋に真九郎への想いを叫ばれては、もう
これ以上、夕乃が紫を否定することは出来なくなってしまった。
紫は目をそらさない。
この会話が始まってからずっと、ずっと現実から目をそらさずにいる。
おそらく、この子は真九郎がこの先、人を殺めたとしても、たとえ
真九郎が自分を拒絶したとしても、きっと真九郎から離れないだろう。
「うっ...うううっ...も、もうイヤ...」
先に、音を上げたのは夕乃だった。
最初から分かっていた。
外道に徹し、真九郎のことを諦めさせようとしても、紫は決して
真九郎を諦めないということも、自分がそんな紫を無自覚のうちに
好きになっていたということも....。
夕乃が心の底から真九郎を嫌いになれないように、紫の事も心の底から
嫌うことが出来ないことなんて、最初からわかりきってたことなのだから。
「諦めてよぉ...私から、真九郎さんを...大好きな人を奪わないで...」
「夕乃...もういい!もういいんだ!」
「夕乃が望むなら、私は真九郎にとっての一番でなくてもいい...」
「紫ちゃん...」
涙をぬぐい、ようやく曇りなき瞳で紫と相対する夕乃に紫は
更に自分がどうしたいのかを、熱意を込めて語り始めた。 「夕乃!私は九鳳院だ。それは変えようがない!」
「だが、九鳳院以上に真九郎が大事なのが私の本心だ!」
「真九郎がいれば、私は何でも出来る。不可能だって可能にしてみせる」
「いや、それ以前に私は、私の力で真九郎の力になってやりたい!」
真九郎が自分を未来へと導いてくれた。
ならばこそ、今度は自分が真九郎の望む未来へとその手を引いていきたい。
夕乃も、紫も、その心の根底にあるのはそれだけだった。
ただ、その想いが強すぎて、誰とも分かち合えないと思い込んでいた。
しかし、もう二人の間にあるわだかまりは既に溶けていた。
今ここにあるのは互いを認める素直な気持ちと心だけだった。 「夕乃。私を真九郎の側にいさせてくれ!」
「どんな形でも良い!私は真九郎の側にいるのが一番の幸せなんだ」
そうだ。私は今までなにを遠回りしていたんだろう。
たとえ真九郎と結ばれなくても、ずっと、どんな形であっても
愛する人を支えたい。そう思っていたはずだったのに.....。
「紫ちゃん。今の言葉に嘘はないですか?」
「無い!」
「一人の女として、私にそれを死ぬまでずっと誓えますか?」
「誓う!」
一番でなくてもいい。ただ愛する者の側にずっといたい。
紫の言葉に夕乃の心は、遂に陥落したのだった。
「頼む夕乃。この紫の一生に一度のお願いだ」
「私から、私が愛する紅真九郎を奪わないでくれ!」 畳に手をつき、頭をつけた土下座をする紫を起こしながら、夕乃は
僅かに残った涙をぬぐい、最後に残った心の闇を綺麗に清算した。
真九郎は結局自分だけを見てくれなかった。
けれど...
「...完敗ですよ。はーぁ、本当に負けました」
「ゆ、夕乃?」
「貴女の気持ち、本当に分かりました」
今なら、紫の気持ちが分かるかも知れない。
だって、こんなに素敵な女性ならいつまでも一緒に居たくなる筈だ。
臆することなく心の闇に踏み込んできて、いつの間にかその闇を
綺麗に晴らして、前へと進む力と決意を与えてくれる。
そんな九鳳院紫という少女に崩月夕乃は心惹かれてしまったのだ。
「紫ちゃん。いつか私と一緒に真九郎さんと暮らしませんか?」
「ほ、本当にいいのか?!」
「ただ、真九郎さんの一番目の奥さんの座は譲れません」
「それでもいいなら、私は、崩月は貴女を家族に迎え入れます」
「夕乃〜!」 夕乃の豹変に戸惑いながらも、紫は自分が認められた嬉しさを
隠すことなく夕乃へとぶつけた。
夕乃も紫に対して抱いていた心の闇がなくなった今、目の前の
少女に対して、かつて真九郎に対して抱いていた庇護欲のような
感情がわき上がってくることを自覚した。
「私は、なんていうか...不器用で、感情的ですけど」
「貴女と上手くやっていけるように、ちゃ、ちゃんと努力します」
「だから、もし貴女さえ良ければ...」
「私を姉のように思ってくれても構いません」
これから先、どれくらい紫と一緒に過ごせるのかは分からない。
だけど...
「貴女を嫌う理由も憎む理由も、もう無くなりましたから」
紫との関係を一新するのなら、姉妹という関係が一番だと夕乃は思った。
「ほ、本当に良いのか?夕乃」
「わた、私の気が変わらないうちに早く返事をして下さい!」
「ああ。夕乃がこれから私の姉になってくれるなら大賛成だ!」
「よろしく頼む。夕乃!」 「さて、そうと決まれば騎馬に連絡せねば」
「何を連絡するんですか?」
床に散らばる携帯電話の残骸を見遣りながら、紫に何気なく尋ねる。
これから私も真九郎さんのように、紫ちゃんに振り回される毎日を
送るんだろうなぁ。としみじみと思いながら物思いに耽る夕乃が
真九郎の部屋の電話に手をかけたその時...
「決まっておろう。真九郎を九鳳院の近衛隊に入れるのだ」
「はぁ?!」
事もなげに、さらりととんでもないことを紫は言い放った。
「何をそんなに驚いておるのだ、夕乃?」
「驚きますよ...大体、そんなこと急に言われたって...」
「ふくりこうせいとやらは九鳳院は世界で一番しっかりしているぞ?」
「ダメです!まだ真九郎さんは崩月流の修行が終わってません」
「それに、近衛隊に真九郎さんが入れば一緒にいられる時間が減りますよ」
「なに?!そ、それはイヤだ。ううむ、やはり崩月の修行が先かぁ」
「そ、そうですよ」 紫は実に残念そうな表情を浮かべながらも、お父様に真九郎のことを
認めさせるには実に良い機会だったのだがなぁ。と未練がましく
夕乃に抗議していた。
確かに今の真九郎の実力なら、そこそこ通用はするだろうが
九鳳院とて、最終学歴が中卒の近衛兵を置いておきたくないだろう。
せめて、真九郎が卒業するまで保留するというのが妥当な判断だろう。
「この話は、これでおわ...」
「そうだ!なら、夕乃が近衛隊に入るのはどうだ?」
「私?いや、だって私」
いきなり自分に矛先を向ける紫に対して、夕乃はその意思はないと
説明しようとした。しかし...
「花嫁修業にはもってこいの場所だぞ?」
「給料も良い。人脈も出来る。暇なときはいくらでも休暇が取れるぞ?」
どのみち、高校を卒業したら崩月の修行の傍らで就職活動も始めなければ
ならないだろう。
しかし、何度も面接を受けるのも骨折りだし、崩月を名乗り続ける以上、
命を狙う輩に絡まれる不安もある。
そういうことを踏まえれば、紫の申し出はとてもありがたい。
「...ちなみに育児休暇って取れますか?」
「まぁ、そこは応相談という奴だ。働き次第だろうな」
いずれ真九郎も揉め事処理屋からの転職を考えるはずだろう。
そうなった時、真九郎と一緒に紫を守りながら働くというのも
刺激的で悪くないかもしれない。
「それなら、少し待ってて貰えませんか?」
「うむ。決心がついたら私に教えてくれ。騎馬に話は通しておく」
相容れない表と裏であるにも関わらず、彼女達は笑い合っていた。
まるでこれから先の人生には幸せなことしか訪れないのだというように、
紫と夕乃はいつまでも笑い続けていた。
「あとの問題は、九鳳院の遺伝的な問題だけだな」
「...紫ちゃんのお兄さん達からお世継ぎが産まれればいいですね」
「うむ。そうなれば、私も真九郎の子供を安心して身籠もれる」 真九郎の夢に付き従う身として、これから降りかかってくる困難が
どれだけ無理難題であろうとも、きっと乗り越えて見せる。
何故ならここにいるのは愛の力で運命を変えてきた者達だからだ。
「色々、大変になりますけど頑張りましょうね。紫ちゃん」
「ああ。これから迷惑をかけるが、私も夕乃と真九郎の支えになって見せる」
この世界は残酷で救いがない。
だから人は誰かと寄り添うことで、幸せを得る為に戦う決意を決められる。
これは、いつか来る終わりの時まで愛を叫びながら生きた者達の物語。
どこまでもまっすぐに自分の意思を貫いた彼等の未来は...果たして
〜紫の嫁入り 後編に続く〜 伊南屋さーん。たまにはここに戻ってきてss書いて欲しいです。 【悲報】神メーカーやっちまんさん、誰も求めてないのにシネマティックメーカーに謎リニューアルしたあげく僅か2ヶ月で消える
ぺろり(@yarichiman)さん _ X
/yarichiman
ロンメル足立(@rommeladachi)さん _ X
/rommeladachi