猫と長井♫仲良く喧嘩しな
中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>筑波大学 #777777777777
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/student/1736474684/920
みなさん、新年一発目のテーマは「言葉の意味は知っていても、使いどころを間違えると台無しになる」という話です。
問題の一文、ここですね。
「今後も陸上競技人生を謳歌して欲しいものだ」
一見、立派そうに見えます。「人生」「謳歌」。難しそうで、賢そうで、前向きです。しかし、日本語は“雰囲気”で使うと失敗します。
まず語義です。「謳歌」とは何か。
謳歌とは、心ゆくまで楽しむこと。しかも、ある程度“まとまりのある期間”を振り返るときに使う語。典型例はこうです。
青春を謳歌した
栄華を謳歌した
第二の人生を謳歌している
共通点、分かりますか?
そう、時間的に一区切りが見えている。あるいは、安定した状態にある。
では「大学陸上の現役選手」は?
ここで問題文に戻ります。
・対象:大学の体育会選手
・状態:まだ現役、しかも「今後も」
・期間:数年で終わる可能性が高い
この段階で「謳歌」を使うと、言葉だけが先に老成してしまう。
要するに、まだ走っている最中なのにゴール後に使う言葉を投げているわけです。
さらに「競技人生」という言葉の重さ。
競技人生という語は、普通、
プロスポーツ選手
五輪・世界大会クラス
引退まで含めた長期キャリア
に使います。
大学の体育会活動に使うとどうなるか。
意味は通じます。でも、言葉のサイズが合っていない。
子どものプールにオリンピック用の飛び込み台を持ち込んでいる。こういう感じですね。
なぜ「変に聞こえる」のか。理由は単純です。
文全体は罵倒と嘲笑。そこに突然「人生」「謳歌」という応援・美辞麗句が混ざる。
トーンが一致していない。これは日本語の問題というより、文章設計の失敗です。
覚えておいてください。
日本語で一番怖いのは「意味は合っているが、格が合っていない」言葉。
難しい言葉は、使えた瞬間に評価が上がるのではなく、外した瞬間に評価が下がる。
これ、入試でも、論文でも、掲示板でも同じです。 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>Kanon総合スレッドパート26
https://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1750460561/838
はい、みなさん。今日取り上げる長井文は、
「鎮静化して差し上げましょう」
結論から言います。かなり日本語としておかしいです。どこがおかしいのか。順に見ていきましょう。
@「鎮静化する」は誰の行為か?
まず動詞「鎮静化する」。これは本来、
・状態が自然に落ち着く
・医学・行政・事務的文脈で
・客観的に扱われる現象
に使う言葉です。たとえば、
症状が鎮静化する
市場の混乱が鎮静化する
事態を鎮静化させる(※組織・権限主体)
ここで重要なのは、個人が他人の感情を勝手に「鎮静化してやる」ものではないという点です。
A 他人の「興奮」を「鎮静化して差し上げる」の違和感
日本語の感覚では、
興奮する → 本人の内面状態
落ち着く → 本人がそうなる
つまり他人に対しては普通、「落ち着け」「冷静になれ」「少し頭を冷やせ」、こういう命令・促し表現になります。
ところが長井くんの文は、「鎮静化して差し上げましょう」。これは、上位者が、客観的対象に、処置を施す、ときの言い回し。人間を「処置対象」にしている日本語なんですね。
B 「して差し上げる」が決定的にズレている
さらに問題なのがここ。「差し上げる」。これは謙譲語です。本来は、
・相手に利益を与える行為
・相手が歓迎する行為
にしか使えません。
ところが、「鎮静化して差し上げましょう」、これは、相手を侮辱し、相手を攻撃し、相手の感情を抑え込む、という加害的行為。
謙譲語と意味内容が真っ向から衝突しています。日本語母語話者なら、ここで強烈な違和感を覚えます。
C まとめ
いいですか。
この文章が変なのは、
・他人の感情を「鎮静化する」という発想
・謙譲語「差し上げる」の誤用
・人を処置対象として扱う語感
これらが全部重なっているからです。
結果として、
意味は分かるが、日本語として不気味
日本人の自然な発想から外れている
そういう文章になっている。
言葉というのはですね、上下関係・距離感・人間観が全部出ます。この一文、日本語の問題というより、人の捉え方が、日本語からズレている。 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>▼▲(鶴岡市)▼▲(その2)
https://pug.5ch.net/test/read.cgi/tohoku/1447989495/767
今回はですね、鶴岡スレの768さんからの指摘をテーマに考えていきましょう。難しい法律の話ではありません。日本語の主体と意味の話です。
問題の文はこちら。
「過去の判例と整合性をとりながら、犯した罪に対する刑を決めるにあたって、裁判所は最終的に苦渋するだろうなwww」
この文では、「裁判所は … 苦渋する」となっています。
しかし「苦渋」とは何か。それは、
・心理的な迷い
・感情を伴う葛藤
・人の内面状態
を表す言葉です。
一方で「裁判所」は、
・組織
・制度
・国家機関
であり、感情を持つ主体ではありません。ここで日本語は決定的に破綻します。
日本語では、「判断する」「決定する」のような結果行為は、裁判所を主語にしても成立します。しかし、「苦渋する」「悩む」「迷う」といった心理過程は、人間にしか背負わせられない。
だから、「裁判官が苦渋の決断をする」は成立するけれど、「裁判所が苦渋する」は成立しない。
これは修辞の問題ではなく、意味論の問題です。
さらに、そもそも致命的なのが「苦渋する」。
「苦渋」は名詞です。動作を表す語ではありません。
それを、「苦渋する」と書いた瞬間、この文章は文法的にも崩れます。
・「苦悶」:状態語・動作語として振る舞える。「苦悶の表情」/「苦悶する」ともに自然。
・「苦渋」:評価・性質を示す名詞。「苦渋の選択」は自然でも、「苦渋する」は不自然。
名詞に「する」をつければ何でも動詞になるわけではない。
理由は「慣用」ではなく、語の中身が違うからです。これは日本語の初歩です。
次に、「過去の判例と整合性をとりながら」という表現。
「整合性」は、
・成立している状態
・矛盾がないこと
を指す概念語です。
したがって自然なのは、
整合性が取れる
整合性を保つ
整合性を確保する
「整合性をとる」という言い方は、意味が操作に追いついていない。
この一文で起きていることは、
・心理語を誤って動詞化し
・感情を持たない主体に背負わせ
・抽象語を雑に扱い
・最後に「www」で逃げる
これは、論理的に考えている文章ではなく、知的に見せようとしている文章です。
意味は推測できます。しかし、書いた本人が理解しているとは感じられない。それがこの文章の評価です。
日本語は、語彙力を誇る言語ではありません。主体と意味を一致させる言語です。「裁判所が苦渋する」と書いた瞬間、
その文章は日本語で考えることをやめているんです。 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>Kanon総合スレッドパート26
https://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1750460561/841
今回のテーマは、次の長井文。
「突っかかってこず大人しくなった」
この日本語、どこがおかしいのか?
結論から言いますね。この文、日本語として二重におかしいです。
一つは文法、もう一つは文体(時代感覚)。
まず文法の問題。
普通の現代日本語なら、こう言います。
突っかかってこずに大人しくなった
突っかかって来なくなって大人しくなった
つまり必要なのは、接続助詞「に」。なぜ「に」が必要か。
「〜ず」は否定の形ですが、そのまま次の動作に続ける場合、
〜ず に + 動作
という形を取ります。
例:文句を言わずに帰った
何も言わずに立ち去った
「突っかかってこず大人しくなった」は、接続の関節が外れている状態なんです。
次に、もっと根の深い問題。
実はこれ、単なる「助詞抜け」じゃありません。
問題の核はここ。「こず」。確かに「来ず(こず)」は、
カ変動詞「来(く)」の未然形+打消
古文では完全に正解です。でもね、現代日本語では、ほぼ使われません。
では、なぜ「せず」はOKで「こず」はダメなのか。ここ重要です。
勉強せず帰る → 自然
連絡もせず来た → 自然
一方で、
来ず帰った
突っかかってこず大人しくなった
急に古文っぽくなっちゃう。理由はこれ。
・サ変「す」→ 現代語「する」も主力動詞で、「せず」も生き残った
・カ変「来」→ 「来ず」は完全に「来ない」に置き換えられた
つまり、
・「せず」=現役
・「こず」=ほぼ化石
長井くんの文章全体で何が起きているのか。この文を分解すると、
「俺」「w」「ぶん殴って」「こず」
ネットスラング × 暴力語 × 古文(笑)
時代がバラバラなんです。文体が平安時代から5ちゃんねるまで時空跳躍している。
まとめると、この長井文の違和感は、
1. 「〜ずに」の「に」欠落
2. 死語寸前の古語「こず」を口語に混入
3. 全体の文体が統一されていない
この三点セット。
だから読み手は無意識に、「あれ? 日本語だけど、なんか変だぞ」と感じるわけです。
日本語ってね、文法より先に“時代感覚”がバレる言語なんです。
そこを外すと、どんなに強い言葉を並べても、文章は急に“薄っぺらく”見える。 【異性と片道500キロ以上の旅】
⸻いやー、みなさん、最近は変な話が多くてねー。
こないだ聞いたんだけど、長井って奴がさ、三連休に嫁と本州最北端まで行ったんだって。
長井:いやー、三連休ね、嫁と一緒に本州最北端まで行ってきたんだよ、うっしっしっし。
名無し:おいおいおい!その三連休中、てめぇスレで書き込みしまくってただろーが!旅の話はどうした?写真もゼロじゃねーか、ふざけんなよ。
長井:いやー、旅先でもヒマでさ、ちょっとネット見たり情報集めたりしてただけだって、えへへ。
名無し:情報集めにスマホ三回線!?旅館でも移動中でも書き込みしてただろーが!しかも長文ばっか、内容も怪しいし。完全に嘘松だろうが、もう。
長井:そ、そんなつもりは…いや、目をそらしたかっただけだよ…
名無し:目そらす理由はわかってんだよ。9月13日、お前「嫁の連れ子を襲って孕ませてそれが原因で嫁と離婚した」ってバレたんだろ?
普段から「ねこたんは実の娘の股ぐらを舐めて嫁が出て行った」とか嘘ばら撒いてるもんだから、自分に向くツッコミを流すために書き込み三昧だったんだろーが。
長井:う…うん…まあ、ちょっとだけ…
名無し:で、三連休から十日以上も経ってから旅行話ひけらかすとは、頭悪すぎるなー。描写ゼロ、写真怪しい、完全なる嘘松!
長井:いやー、記憶整理してただけなんだよ…
名無し:整理?整理って、後付けの嘘松だろうが!
長井:ま、ちょい盛っただけだよ…
名無し:しかも別スレに逃げて「自宅から500キロ以上離れた土地の写真を添付できない寂しい奴らwww」とか八つ当たりしてるし!
長井:悔しかったら異性と片道500キロ以上の旅してみろよw
名無し:初孫が産まれたばっかりの設定のいい年したおっさんが既婚者アピールすんなよ、恥ずかしい!
しかも「異性」?嫁との大間旅行の話だろ?何で「異性」ってぼかすんだよ、自分の嘘松嫁を隠すためか?
長井:いやー、今の時代に必要な配慮だよ。女性もLGBTもいるでしょ?
名無し:過疎スレで配慮もクソもねーだろ!しかも地図アプリで長井から大間までの車移動距離(約550km)を調べて「片道500km以上」自慢とか痛すぎるなー。往復200kmじゃダメなのかよ。
長井:いや、誇示したかっただけだよ…
名無し:誇示もいいけど、天気は晴れなのに、お前が貼った旅先の写真は、今にも降り出してきそうなどんよりした空。
長井:あれは…曇ってた瞬間を撮っただけだって…
名無し:瞬間曇り?アメダス見ろよ。大間は13日雨、14・15日晴れだぞ。後付け嘘松確定!
長井:確かに嘘松だけど…この世の中に嘘つかねぇやつなんているか?
名無し:何開き直ってんだよwww
長井:開き直る権利くらいあるだろ、うっしっしwww
名無し:もう…手がつけらんねーな、ほんとに。
⸻旅の話かと思えば嘘松の話、嘘松かと思えば旅の話。笑っちゃうでしょ?
嘘も方便って言うけどね、証拠なき嘘は、ただの笑い者だよ。
長井:うっしっしっし、これで一件落着! 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>Kanon総合スレッドパート26
https://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1750460561/873
はい、みなさん。今回の問題文はこちら。
「ねこ痰って、俺に弄ばされてバカだなぁ」
一見すると、強そうな文章に見えますね。ところがどっこい。日本語として読むと、意味が逆転しています。
まず、動詞を確認しましょう。「弄ぶ(もてあそぶ)」。これは他動詞です。
・Aが ・Bを ・弄ぶ
つまり、主体は常に「弄ぶ側」。
「俺が相手を弄ぶ」。俺が上、相手が下。
ここまではいいですね。
では次。「弄ばれて」。これは受動です。
・Bが ・Aに ・弄ばれている
つまり、「俺が弄んでいる側」、「相手が弄ばれている側」。俺が上、相手が下。
ところが実際に書いているのは「弄ばされて」。
ここで事故が起きます。これは、使役(〜させる)+ 受動(〜される)、いわゆる使役受動です。構造を日本語に直すとこうなります。
・相手が、
・何らかの力によって、
・俺を弄ぶようにさせられている
お気づきでしょうか。
そうです。弄ばれているのは「俺」のほうになってしまう。相手が上、俺が下。
つまり文法的には、
・俺に弄ばれて → 俺が相手をバカにしている
・俺に弄ばされて → 相手が俺をバカにしている
たった一文字、しかし意味は完全に反転します。
これはニュアンスの違いではありません。主語と立場が入れ替わる致命的な違いです。
ここが日本語の怖いところ。
威張りたい文章ほど、文法を間違えると、自分で自分を踏みつける文章になる。
日本語として正確に読むと、「ねこたんに長井くんが振り回されている」という自白文になってしまう。
本人はマウントを取ったつもりでも、
文章は正直です。
日本語というのはね、感情ではごまかせない言語なんです。
どれだけ強がっても、文法が真実を暴いてしまう。 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>Kanon総合スレッドパート26
https://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1750460561/874
はい、みなさん。今回はちょっと面白い日本語を取り上げます。
今日のキーワードは「愛でる」です。
さて、この「愛でる」なんとなく「好き」という意味で使っている人、多いですね。でも実はこの言葉、かなり繊細で、癖の強い日本語なんです。
まず、辞書的な意味から確認しましょう。「愛でる」とは、美しさや趣を、距離を保ったまま鑑賞すること。たとえば、
花を愛でる
月を愛でる
雪景色を愛でる
いかがでしょう。どれも共通点がありますね。そう。触れない。関われない。支配できない。ここがポイントです。
「愛でる」という言葉は、対象と「安全な距離」があるときに成立する日本語なんです。
では次に、オタク文化の話にいきましょう。
アニメキャラ。ゲームキャラ。フィギュア。これらはすべて、
・架空の存在
・現実世界に人格を持たない
・関係性が一方向
です。だから、
キャラを愛でる
フィギュアを愛でる
こうした表現は、文化の中で自然に定着しました。
これはね、古語を遊びとして借りている表現なんです。少し雅で、少しオタク的で、「分かって使っている言葉」なんですね。
さて。ここからが今日の本題です。
では、実在の人物に対して「愛でる」は使えるでしょうか。
たとえば、女優、モデル、アイドル。この人たちはどうでしょう。彼女たちは、
・実在の人格を持つ
・意思を持つ
・私生活を持つ
つまり、人間です。この時点で、先ほどの条件とズレが生じます。
「愛でる」は本来、「物」や「自然」や「架空」に向けられる言葉。実在の人間に向けた瞬間、この言葉は「鑑賞語」から「対象化・消費の語感」へと変質します。
だから日本語話者は無意識に違和感を覚える。「女優を愛でる」、ちょっと、ぞわっとしませんか。
普通はこう言いますね。
ファンです
応援しています
好きな女優です
これが自然な距離感です。
さらに問題なのは、物と人を同じ動詞で並べてしまった場合です。
フィギュアと実在の女優を、「どちらを愛でるのがまともか」と並列する。これは日本語的には、「人を物と同列に置いてしまっている構文」になる。
ここに、強い不自然さが生まれるんです。
では、なぜこうなるのか。それはね、言葉の問題ではなく、視線の問題です。
その人が、
・相手を「人」と見ているのか
・「鑑賞物」と見ているのか
それが、動詞の選び方に表れてしまう。日本語はね、語彙よりも距離感の言語なんです。
どの言葉を選ぶかで、その人が世界をどう見ているかが、全部出てしまう。
言葉は飾りじゃありません。人の内側の姿勢を、そのまま映す鏡なんです。 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>Key総合雑談スレ Part32
https://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1749161397/870
はい、久々に長井くんらしい文が現れましたね。
「算出してみろよ」
はい、ここ。普通の日本人が言いますか?
「何回◯◯されたか、算出してみろ」。言いません。
日本語での整理をしますね。
・数える:具体物・回数を一つずつ確認
・算出する:計算・推計・統計処理の結果を出す
行為のレベルが違う。
「算出」は、エクセル、統計、研究論文、この辺の単語です。
ところが中国語ではどうか。「算(suan)」、
・計算する
・数える
・勘定する
一語で両方カバー。つまり、「数えろ」→「算一下」→日本語にすると「算出してみろ」。
直訳+格好つけが起きやすい。これ、外国語学習あるあるです。
「数かぞえたことあるか?」
これも同じ系統。
日本語母語話者は普通、「数えたことあるか?」で止めます。
「数かぞえる」は、幼児向け、説明調、メタ言語的。
対して中国語では、
・数一数
・数数看
動詞の重複が自然。
それを日本語に持ち込むと「数を数える」「数かぞえる」になる。
不自然だが意味は通じる。
「〜ゆえ」
はい、ここ一番大事。文章全体は、罵倒、擬音、www、スラング。
なのに、「薬剤耐性がつくゆえ」。急に論文。
これ、日本語母語話者だと文体センサーが警告を出します。
中国語では、
・因为
・由于
原因説明は形式張っても浮かない。
その感覚のまま日本語に来ると、「だから」「ので」ではなく、「ゆえ」を選びがち。
まとめ。
・算出 → 中国語の「算」の影響が濃厚
・数かぞえる → 動詞重複の母語干渉
・〜ゆえ → 因果接続の文語偏重
日本語として意味は通るが、日本語母語話者の自然な選択ではない。
言語は癖が出る。
癖は文章に残る。 俺の感覚だと、数えるは自然数、算出するは実数虚数微分積分なんでもあり >>247
「〜ゆえ」は本来、名詞に接続して理由や原因を表す表現です。
例えば、
「薬剤耐性ゆえ」 → 正しい
「若さゆえ」 → 正しい
一方で、動詞や形容詞の文末形にそのまま「ゆえ」をつけるのは文法的におかしい。
「薬剤耐性がつくゆえ」 → 誤り
「若いゆえ」 → 誤り
これは、「〜がゆえに」と「〜さゆえに」のように、形式的に名詞化する処理が必要だからです。
さて、こちらはどうでしょうか。ちゃんと名詞に接続しているように見えます。
「白痴単細胞ゆえ」 → ?
でもこれは生物学でいうところの名詞「単細胞(single cell)」ではなくて、「単細胞だ(simple-minded)」という形容動詞の意味ですから、やはり誤りです。 ゴミにそびえるルンペンの〜♪
姿形はあわれなり〜♪
↑あとは任せた。 ルンペンだの玉無しだのと連呼するだけのお前も長井と大して変わらんな >>250
雲にそびゆる高千穂の城
高根おろし草もZ
なびきふしけん大御世の為に
仰ぐ今日こそパイルダーON! >>250
ルンペン連呼 馬鹿猫共に
二匹まとめて 死んでくれ 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>▼▲(鶴岡市)▼▲(その2)
https://pug.5ch.net/test/read.cgi/tohoku/1447989495/891-
「蜘蛛の糸」に関してはね、次の質問をもらったことがあるんですよ。
「小さな善で救いのチャンスを得たカンダタがもしも利他的に振る舞った結果、たった一つの善行すら無い他の罪人まで救われたら不公平では?」
僕も子供の頃に教科書で読んだ時に、似たようなことを思いました。
彼がもしも糸を登ってくる罪人たちに向かって「一度にたくさんぶら下がったらこんな細い糸は速攻で切れてしまって全員死んでしまうぞ、俺が登り切ったら秩序を守って一人ずつ登って来い」なんて、今で言う「現場猫」的な観点で叫んだとしたらどうなったんだろうか。
地獄の罪人全員恩赦で、お釈迦様自ら仏教の教えを破壊(笑)。
話を戻すと、彼女の質問の方が僕より百万倍深いです。作品の「公平」の捉え方が、現代の感覚と違うところに気づいています。
この物語が測っているのは配点の多寡ではなく、心の向きです。
@ 小さな善行は「受験資格」
蜘蛛を殺さなかったことは、いわば試験を受ける資格。
合格条件は別にあります。
それが他者を排除しない心です。
A 救いは「分配」ではなく「開放」
現代的な公平観は「功績に応じて配る」ですが、この作品の論理は違う。
・救いは私物ではない
・他者を含める心が開いたとき、道が開く
もしカンダタが共有の意思で行動し、その結果として他の罪人も助かるなら、それは「彼の点数が配られた」のではなく、
救いの回路が共有可能であることが示されただけです。
条件は誰に対しても同じ。利己を手放せるかどうか。
B 逆説的な結末の意味
「自分のための救いによって他人まで助かるのは納得できない」
この感覚が立ち上がった瞬間、救いは独占の対象になります。
本作はまさにその瞬間を捉え、糸が切れることで「不合格」を示します。
この物語が問うのは、どれだけもらえるかではない。終わるのは命ではなく、救いの可能性である。
そして、糸(thread)は「自分だけのものだ」と思った瞬間に切れる。救いも掲示板も、共有してこそつながるんです。
※同スレッドの911さんの、次の文を参考にさせていただきました。
>あんたのスレじゃないんだから、私にだって対等にレスする権利はあるんだけど
>あんたが言ってることって、糸が切れて地獄にまた戻っちゃう時のカンダタの発想と同じなのよ
>「この糸(スレッド)は俺だけのものだ」と叫んでるっていうね 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>▼▲(鶴岡市)▼▲(その2)
https://pug.5ch.net/test/read.cgi/tohoku/1447989495/895-
「ばぁ〜か
極楽浄土にいるのはお釈迦様ではない
阿弥陀如来だ」
長井くんが珍しく事実を書いていますね。
でもそこは、「ばぁ〜か」ではなく、せっかくなら仏教語で「莫迦」と書いて欲しかったですね。
ただ、結論から言うと、物語の中では“蜘蛛の糸を垂らしたのはお釈迦様”で正しいです。したがって「それは誤りだ」とは言えません。
たしかに仏教の教理では、西方極楽浄土の主は阿弥陀如来です。だから「極楽にいるのは阿弥陀で、釈迦ではないのでは?」という疑問が出てくるのは、とても自然な読みです。
しかし、「蜘蛛の糸」は宗教の教義書ではなく、寓話的な文学作品です。作者芥川龍之介は、読者にとって最も分かりやすい“覚った存在”の象徴として釈迦如来を登場させています。
ここで大切なのは「どの浄土の主が誰か」という配置の厳密さよりも、人間の心を見つめる超越的なまなざしを誰が体現しているか、という点です。
つまり、この作品では教理の厳密な区別よりも、利己心が救いを壊すという主題を最も明瞭に示す配置が選ばれているのです。
教理の一般論:極楽の主は阿弥陀如来。
物語の設定:糸を垂らしたのは釈迦如来。
両者は役割が違うだけで、作品理解としては矛盾ではありません。