猫と長井♫仲良く喧嘩しな
中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>Kanon総合スレッドパート26
https://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1750460561/874
はい、みなさん。今回はちょっと面白い日本語を取り上げます。
今日のキーワードは「愛でる」です。
さて、この「愛でる」なんとなく「好き」という意味で使っている人、多いですね。でも実はこの言葉、かなり繊細で、癖の強い日本語なんです。
まず、辞書的な意味から確認しましょう。「愛でる」とは、美しさや趣を、距離を保ったまま鑑賞すること。たとえば、
花を愛でる
月を愛でる
雪景色を愛でる
いかがでしょう。どれも共通点がありますね。そう。触れない。関われない。支配できない。ここがポイントです。
「愛でる」という言葉は、対象と「安全な距離」があるときに成立する日本語なんです。
では次に、オタク文化の話にいきましょう。
アニメキャラ。ゲームキャラ。フィギュア。これらはすべて、
・架空の存在
・現実世界に人格を持たない
・関係性が一方向
です。だから、
キャラを愛でる
フィギュアを愛でる
こうした表現は、文化の中で自然に定着しました。
これはね、古語を遊びとして借りている表現なんです。少し雅で、少しオタク的で、「分かって使っている言葉」なんですね。
さて。ここからが今日の本題です。
では、実在の人物に対して「愛でる」は使えるでしょうか。
たとえば、女優、モデル、アイドル。この人たちはどうでしょう。彼女たちは、
・実在の人格を持つ
・意思を持つ
・私生活を持つ
つまり、人間です。この時点で、先ほどの条件とズレが生じます。
「愛でる」は本来、「物」や「自然」や「架空」に向けられる言葉。実在の人間に向けた瞬間、この言葉は「鑑賞語」から「対象化・消費の語感」へと変質します。
だから日本語話者は無意識に違和感を覚える。「女優を愛でる」、ちょっと、ぞわっとしませんか。
普通はこう言いますね。
ファンです
応援しています
好きな女優です
これが自然な距離感です。
さらに問題なのは、物と人を同じ動詞で並べてしまった場合です。
フィギュアと実在の女優を、「どちらを愛でるのがまともか」と並列する。これは日本語的には、「人を物と同列に置いてしまっている構文」になる。
ここに、強い不自然さが生まれるんです。
では、なぜこうなるのか。それはね、言葉の問題ではなく、視線の問題です。
その人が、
・相手を「人」と見ているのか
・「鑑賞物」と見ているのか
それが、動詞の選び方に表れてしまう。日本語はね、語彙よりも距離感の言語なんです。
どの言葉を選ぶかで、その人が世界をどう見ているかが、全部出てしまう。
言葉は飾りじゃありません。人の内側の姿勢を、そのまま映す鏡なんです。 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>Key総合雑談スレ Part32
https://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1749161397/870
はい、久々に長井くんらしい文が現れましたね。
「算出してみろよ」
はい、ここ。普通の日本人が言いますか?
「何回◯◯されたか、算出してみろ」。言いません。
日本語での整理をしますね。
・数える:具体物・回数を一つずつ確認
・算出する:計算・推計・統計処理の結果を出す
行為のレベルが違う。
「算出」は、エクセル、統計、研究論文、この辺の単語です。
ところが中国語ではどうか。「算(suan)」、
・計算する
・数える
・勘定する
一語で両方カバー。つまり、「数えろ」→「算一下」→日本語にすると「算出してみろ」。
直訳+格好つけが起きやすい。これ、外国語学習あるあるです。
「数かぞえたことあるか?」
これも同じ系統。
日本語母語話者は普通、「数えたことあるか?」で止めます。
「数かぞえる」は、幼児向け、説明調、メタ言語的。
対して中国語では、
・数一数
・数数看
動詞の重複が自然。
それを日本語に持ち込むと「数を数える」「数かぞえる」になる。
不自然だが意味は通じる。
「〜ゆえ」
はい、ここ一番大事。文章全体は、罵倒、擬音、www、スラング。
なのに、「薬剤耐性がつくゆえ」。急に論文。
これ、日本語母語話者だと文体センサーが警告を出します。
中国語では、
・因为
・由于
原因説明は形式張っても浮かない。
その感覚のまま日本語に来ると、「だから」「ので」ではなく、「ゆえ」を選びがち。
まとめ。
・算出 → 中国語の「算」の影響が濃厚
・数かぞえる → 動詞重複の母語干渉
・〜ゆえ → 因果接続の文語偏重
日本語として意味は通るが、日本語母語話者の自然な選択ではない。
言語は癖が出る。
癖は文章に残る。 俺の感覚だと、数えるは自然数、算出するは実数虚数微分積分なんでもあり >>247
「〜ゆえ」は本来、名詞に接続して理由や原因を表す表現です。
例えば、
「薬剤耐性ゆえ」 → 正しい
「若さゆえ」 → 正しい
一方で、動詞や形容詞の文末形にそのまま「ゆえ」をつけるのは文法的におかしい。
「薬剤耐性がつくゆえ」 → 誤り
「若いゆえ」 → 誤り
これは、「〜がゆえに」と「〜さゆえに」のように、形式的に名詞化する処理が必要だからです。
さて、こちらはどうでしょうか。ちゃんと名詞に接続しているように見えます。
「白痴単細胞ゆえ」 → ?
でもこれは生物学でいうところの名詞「単細胞(single cell)」ではなくて、「単細胞だ(simple-minded)」という形容動詞の意味ですから、やはり誤りです。 ゴミにそびえるルンペンの〜♪
姿形はあわれなり〜♪
↑あとは任せた。 ルンペンだの玉無しだのと連呼するだけのお前も長井と大して変わらんな >>250
雲にそびゆる高千穂の城
高根おろし草もZ
なびきふしけん大御世の為に
仰ぐ今日こそパイルダーON! >>250
ルンペン連呼 馬鹿猫共に
二匹まとめて 死んでくれ 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>▼▲(鶴岡市)▼▲(その2)
https://pug.5ch.net/test/read.cgi/tohoku/1447989495/891-
「蜘蛛の糸」に関してはね、次の質問をもらったことがあるんですよ。
「小さな善で救いのチャンスを得たカンダタがもしも利他的に振る舞った結果、たった一つの善行すら無い他の罪人まで救われたら不公平では?」
僕も子供の頃に教科書で読んだ時に、似たようなことを思いました。
彼がもしも糸を登ってくる罪人たちに向かって「一度にたくさんぶら下がったらこんな細い糸は速攻で切れてしまって全員死んでしまうぞ、俺が登り切ったら秩序を守って一人ずつ登って来い」なんて、今で言う「現場猫」的な観点で叫んだとしたらどうなったんだろうか。
地獄の罪人全員恩赦で、お釈迦様自ら仏教の教えを破壊(笑)。
話を戻すと、彼女の質問の方が僕より百万倍深いです。作品の「公平」の捉え方が、現代の感覚と違うところに気づいています。
この物語が測っているのは配点の多寡ではなく、心の向きです。
@ 小さな善行は「受験資格」
蜘蛛を殺さなかったことは、いわば試験を受ける資格。
合格条件は別にあります。
それが他者を排除しない心です。
A 救いは「分配」ではなく「開放」
現代的な公平観は「功績に応じて配る」ですが、この作品の論理は違う。
・救いは私物ではない
・他者を含める心が開いたとき、道が開く
もしカンダタが共有の意思で行動し、その結果として他の罪人も助かるなら、それは「彼の点数が配られた」のではなく、
救いの回路が共有可能であることが示されただけです。
条件は誰に対しても同じ。利己を手放せるかどうか。
B 逆説的な結末の意味
「自分のための救いによって他人まで助かるのは納得できない」
この感覚が立ち上がった瞬間、救いは独占の対象になります。
本作はまさにその瞬間を捉え、糸が切れることで「不合格」を示します。
この物語が問うのは、どれだけもらえるかではない。終わるのは命ではなく、救いの可能性である。
そして、糸(thread)は「自分だけのものだ」と思った瞬間に切れる。救いも掲示板も、共有してこそつながるんです。
※同スレッドの911さんの、次の文を参考にさせていただきました。
>あんたのスレじゃないんだから、私にだって対等にレスする権利はあるんだけど
>あんたが言ってることって、糸が切れて地獄にまた戻っちゃう時のカンダタの発想と同じなのよ
>「この糸(スレッド)は俺だけのものだ」と叫んでるっていうね 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>▼▲(鶴岡市)▼▲(その2)
https://pug.5ch.net/test/read.cgi/tohoku/1447989495/895-
「ばぁ〜か
極楽浄土にいるのはお釈迦様ではない
阿弥陀如来だ」
長井くんが珍しく事実を書いていますね。
でもそこは、「ばぁ〜か」ではなく、せっかくなら仏教語で「莫迦」と書いて欲しかったですね。
ただ、結論から言うと、物語の中では“蜘蛛の糸を垂らしたのはお釈迦様”で正しいです。したがって「それは誤りだ」とは言えません。
たしかに仏教の教理では、西方極楽浄土の主は阿弥陀如来です。だから「極楽にいるのは阿弥陀で、釈迦ではないのでは?」という疑問が出てくるのは、とても自然な読みです。
しかし、「蜘蛛の糸」は宗教の教義書ではなく、寓話的な文学作品です。作者芥川龍之介は、読者にとって最も分かりやすい“覚った存在”の象徴として釈迦如来を登場させています。
ここで大切なのは「どの浄土の主が誰か」という配置の厳密さよりも、人間の心を見つめる超越的なまなざしを誰が体現しているか、という点です。
つまり、この作品では教理の厳密な区別よりも、利己心が救いを壊すという主題を最も明瞭に示す配置が選ばれているのです。
教理の一般論:極楽の主は阿弥陀如来。
物語の設定:糸を垂らしたのは釈迦如来。
両者は役割が違うだけで、作品理解としては矛盾ではありません。