猫と長井♫仲良く喧嘩しな
中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>Kanon総合スレッドパート26
https://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1750460561/567-568
はい、皆さん。
まずはこちらの文を見てください。
「俺に土下座強要するより、娘さんに向かって先に土下座するが先ではないかwww」
一見、勢いのある書き込みですが、実はこの一文の中には二重構造が二か所潜んでいます。
@ 「先に〜が先」──“順序”の二重化
「先に土下座するが先ではないか」
意味を分解すると、「先に」も「が先」も同じ“順序の強調”。つまり、「頭痛が痛い」と同じ構造の意味重複です。
この重複が生じた理由は明確です。中国語の語順に引きずられているんです。
中国語では、
你应该先向你女儿道歉。
(あなたはまず娘さんに謝るべきだ)
と、「先(まず)」を副詞として文頭に置きます。
この語順をそのまま日本語に転写した結果、「先に〜が先」という中国語と日本語の折衷文が生まれてしまった。
A 「娘さんに向かって土下座する」──“方向”の二重化
次にこの部分です。一見丁寧そうに見えますが、実は日本語的には説明くさい冗長表現です。なぜかというと、「土下座する」という行為自体が相手に対して行うものだから。方向性はすでに動詞の中に含まれています。
つまり、「娘さんに土下座する」で意味は完全。そこに「向かって」を加えると、「娘さんの方角に向けて物理的に体を倒す」ような描写的ニュアンスになってしまい、やや不自然で説明的な日本語になります。
これもやはり、中国語の影響が見えます。中国語では「向〜道歉(〜に向かって謝る)」という表現がごく普通に使われます。その感覚をそのまま日本語に持ち込んでしまったわけです。
B 19分後の訂正「先にがダブった(笑)」──自己防衛の笑い
そして19分後に出てくるこの書き込み。
先にがダブった(笑)
19分という時間差が重要です。
書いた瞬間には違和感を感じていなかった。でも後で読み返して、「あれ? 指摘されるかも」と思って調べた可能性が高い。
最近、長井さんは「日本語の不自然さ」を何度も指摘されている。そのため、自分の文を確認する防衛的習慣ができつつあるんですね。
「(笑)」を添えたのは、恥を隠すための緩衝材。つまり「ミスに気づいてる俺、余裕あるでしょ?」という自己演出でもあります。
まとめ
「先にが先」も「向かって」も、どちらも「意味の重ねすぎ」が原因です。そしてその背景には、「中国語のまま考えて日本語を話している」という構造があります。つまり、言葉の重複は、思考の翻訳ミスなんです。
言葉のちょっとした“余分”には、その人の文化背景や心理状態が滲み出ます。
「長井の洞察力・文章力が優れてたから」?(笑)
長井さん、“洞察”の前にまず“添削”から始めましょう。”文章力”だなんて百万年早い。 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>Kanon総合スレッドパート26
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「筑波大学卒でも人間のクズはいるという典型例www」という一文。
みなさん、「筑波大学卒」って言い方、耳にしたことありますか?
……ないですよね?(笑)
これ、文法的には成立しているように見えて、実は日本語としては未完成な形なんです。
まず、「卒」というのはもともと「卒業」という言葉の略です。ですから、「大卒」「高卒」「短大卒」といった表現は、もう“慣用句”としてセットで定着している。
ここには「“大”や“高”とセットで言うもの”」というリズムがあるんです。
ところが、「筑波大学卒」となると話が違う。「筑波大学」という正式名称のあとに、略語の「卒」をくっつけている。つまり、フォーマルな前半とカジュアルな後半の衝突なんです。
たとえば、スーツにサンダル履いてるようなもの(笑)。見た瞬間、「どっちのテンションで来たの?」ってなるわけです。
そしてもう一つ大事なのは、“耳の期待”です。
「筑波大学……」と聞いたら、普通は「卒業」まで言うだろうと耳が待っている。そこを「卒」で止めると、「え、今“業”飲み込んだよね?」という、言い切れていない違和感が残るんです。
ですから、自然な言い方は二つに分かれます。
・正式に言うなら:「筑波大学卒業」
・略すなら :「筑波大卒」
このどちらかにするのが、日本語のリズムとして最も美しい。
要するに、「筑波大学卒」という言葉が不自然に聞こえるのは、「卒業」と「卒」のどちらにも振り切れていない、中途半端な略し方をしているからなんです。
「筑波大学卒」は、文法ではなく語感の問題。
日本語は「略すなら徹底的に、言うならきちんと最後まで」。
途中で止めると、日本語の耳が許してくれないんです。
次に、「典型例」という言葉の使い方を見てみましょう。
長井さんは「筑波大学卒でも人間のクズはいるという典型例」と書いていますね。一見もっともらしいんですが、これ――実はちょっと日本語としてズレています。
「典型例」というのは、本来「ある性質を最もよく表す代表的な例」を指します。
たとえば、「努力家の典型例」とか「無責任な上司の典型例」。つまり、「◯◯の典型例」という形で使うんです。
ところが長井さんの文は「筑波大学卒でもクズはいるという命題」を「典型例」にしてしまっている。
つまり、「典型例」が「現象」ではなく「主張そのもの」を指しているんですね。
これ、論理的には「筑波大学卒でもクズはいることを示す事例」、あるいは「人間のクズの典型例」とするのが自然です。
要するに、「例」にあたる対象を取り違えている。
構文としても意味としても、「ちょっと国語的に惜しい」――
いかにも「語感でしゃべってる人」の文章なんです。 ♬レスクレ乞食のプシューの歌
Hey!
ちっちゃな頃から嘘つきで
15で自演を始めたよ
厨二みたいにイキっては
目にしたレスみなケチ付けた
ああ「構ってくれ」しか言わないが
そんなに俺が悪いのか
馬鹿ばい馬鹿ばいオナニーよ
レスクレ乞食のプシューの歌 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
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皆さん、議論というのはね、「感情をぶつける場」じゃなくて、「論理を検証する場」なんです。
ところが今回の長井さん──完全にそれを勘違いしてますね。
それでは、長井さんの詭弁を論理的に解剖してみましょう。
@ 人格攻撃(Argumentum ad Hominem)
たとえば、「お前が言っても説得力がない」──これ、議論の世界では最も初歩的な詭弁です。
「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」。ねこたんさんは「運転中の携帯使用は危険」と正論を言っているのに、長井さんは相手の人格を攻撃することで論点をすり替えています。
つまり、論理ではなく敵意だけで会話している状態です。
A 藁人形論法(Straw Man Fallacy)
「くだらないことを20年もやってる」──これはね、相手の主張をわざと歪めて叩く典型です。
ねこたんさんは「違法行為を非難している」だけなのに、それを「オタクの異常行動」に変換して攻撃している。
こういう人に限って「論破した!」って言うんですが、実際は自分で作った偽物を叩いただけなんですよ。
B お前も悪い論法(Tu Quoque)
「お前も運転しながら携帯弄ってたんじゃないのか?」──はい、出ました、“トゥ・クオク(Tu Quoque)”。直訳すると「あなたも同じじゃないか」。
でもね、仮に相手が過去に同じことをしていたとしても、自分の行為が正当化されるわけじゃない。
これはもう、論理学的敗北宣言です。
C 論点そらし(Red Herring)
「年下の同僚が成りすましで〜」「韓国血脈が〜」──これも見事な“燻製ニシンの虚偽 (Red Herring)”です。
議論が自分に不利になると、関係のない話題を投げて煙幕を張る。こういう人、授業で言うとね、「テストで答えが分からないから、字だけ大きく書くタイプ」です。
要するに、論理の戦場から逃走中。
D 偽因論法(False Cause)
「韓国血脈だから常識がない」──これは最悪の部類です。
民族や出自を「行動の原因」とみなすのは、論理的にも倫理的にも破綻しています。
それに、自身が中国語母語話者であることが判明している以上、この発言は「自己矛盾の実例」そのものです。
E 心理的投影(Psychological Projection)
「恥を知れ」と言われて「お前の方が恥だ」と返す。これは論理学というより心理学の領域ですね。
自分の中の「恥ずかしさ」や「罪悪感」を他人に転嫁して、攻撃することで自己防衛する。つまり、内なる弱さの鏡映です。
攻撃の強さは、そのまま自分の不安の強さなんです。
まとめ
長井さんの問題はね、「ねこたんを論破できていない」ことじゃない。
「自分を論破できていない」ことなんです。
論理の世界では、感情の逃げ道は一つもない。
逃げた瞬間──敗北確定。 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾
>>筑波大学 #777777777777
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/student/1736474684/745
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/student/1736474684/749
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/student/1736474684/751
今回のテーマは──長井君の浮いた日本語。例としては「加担せん」「記載」「差し置いて」などですね。
一見、文法的には間違っていないんですよ。どの文も主語・述語の対応は取れているし、漢字の使い方も一応は正しい。
ところが読んでみると、どこか不自然で引っかかる。ここが、いわゆる「ネイティブと非ネイティブの差」が最もはっきり出るポイントなんです。
@ 「お前らの自己満足には加担せん」
まず「加担せん」ですが、これは「加担しない」という意味ですね。ただ、「加担」という言葉の使い方が問題なんです。
「加担」は普通、悪事や争いごとに関わるときに使います。「不正に加担する」「陰謀に加担する」。つまり、道徳的にグレーなことを「手助けする」というニュアンスなんです。
でも長井君が相手に言っているのは「自己満足には加担せん」。自己満足は悪事ではありません。だからここで「加担」を使うと、文としては成立しても、語感としては完全にミスマッチ。
こういうのは、中国語母語話者に非常に多いんです。なぜかというと、中国語では「参加」「支持」「介入」といった抽象語の使い分けが緩い。「関与する」「関わる」という概念を表すときに、すべて“一个词”で済んでしまう。
だから日本語でそのまま「加担」に置き換えると、硬すぎるうえに場面不適合になるんです。
A 「『筑波大学』の記載が全く無い」
次に「記載」です。一見正しい。でもこの文脈、掲示板の投稿に対して使うのは不自然です。
「記載」は書類や契約書など、正式な文書に何かを“書き記す”ときに使う言葉。それに対して「記述」は文章全般、つまり表現・説明を指します。
だから「投稿に『筑波大学』の記載がない」というのは、「履歴書に住所の記載がない」と同じトーンなんですね。つまり、言葉としては正しくても、文脈の“硬さ”が場違い。
これも、中国語の影響が出ています。中国語では「記載(jizǎi)」という語が日本語よりずっと広く使われる。口語でも、単に「書かれている」「述べている」という意味でOKなんです。
その感覚を日本語に持ち込むと、「記載」の使いすぎになる。
B 「筑波大学を差し置いて個人攻撃してるだけだろ?」
次に「差し置いて」。これも難しい。
「差し置く」は、本来「優先すべきものを脇に置いて、別のことを先にする」という意味です。
たとえば「健康を差し置いて仕事ばかりしている」――これは自然です。でも「筑波大学を差し置いて個人攻撃してる」はちょっと違う。
筑波大学は“優先的に扱うべき対象”ではあっても、時間的・行動的な優先順位の話ではない。つまり、「差し置く」という語のもつ“時間と意志のニュアンス”がずれている。
ここでも、やはり中国語の動詞の構造の単純さが影響しています。中国語の「撇开」「无视」「不顾」などは、文脈をあまり選ばずに使えます。
そのため、「無視して」と言いたい場面で「差し置いて」を使ってしまう。意味は通るが、語感がズレる――これが長井語の典型です。
C まとめ:文法よりも「語感」のズレ
さて、ここまで見てきたように、長井君の日本語の問題は文法的な誤りではなく、語感の選択ミスなんです。
・「加担」は悪事専用
・「記載」は書類用語
・「差し置く」は意図的な優先順位の操作
どれも意味はわかる。でも、場面の“空気”に合っていない。
この「空気を読む語感」が、日本語運用の最も繊細で難しい部分なんです。
つまり、長井君の日本語は“正しいけど、伝わらない”。
それが、母語干渉の怖さなんです。