猫と長井♫仲良く喧嘩しな
長井のための日本語矯正塾 >>key 561 @「懲役に入る」 「懲役に入る」っていう表現、一見意味はわかるんですよ?でもね、日本語の語法的に言えば完全にアウトです。 なぜなら、「懲役」というのは抽象的な刑罰の種類なんです。 それに、「入る」っていう動作動詞をくっつけるのは、たとえば「水に入る」とか「部屋に入る」みたいな、物理的空間に入る時の使い方が基本なんですよ。 だから自然な日本語なら、「刑務所に入る」「懲役刑を受ける」「服役する」あたりが適切ですね。 もっとカジュアルな言い方だと、「懲役を食らう」もアリですね。 こういう表現が出てくる背景には、中国語で「進監獄(刑務所に入る)」とか「服刑(刑に服する)」という言い方があるんですが、これをそのまま直訳してしまった、つまり母語干渉の可能性があるんです。 A〜を起因に これもですね、学校で習うレベルの文法からズレてます。 「〜を起因に」って、パッと聞くとそれっぽいけど、日本語の文法にちゃんと則って考えると、「起因」って他動詞じゃないんですよ。 「何かが原因で何かが起こる」――この時に使うのは、「〜に起因して」「〜が原因で」「〜の(〜が)理由で」という形が正しい。 つまり、「性犯罪実行を起因に」なんて言い方は、本来助詞「に」や「が」を使うべきところで「を」にしちゃってるわけですね。 これは、日本語を母語としない人が、 中国語の「起因于〜(〜に起因する)」あたりを意識して構文を崩したと見るのが妥当。 結論 両方に共通して言えるのは、次の点です。 ・抽象名詞の扱い方を間違えている(「懲役」「起因」) ・構文に対する理解が浅い ・直訳調の語感が強く、日本語としての自然さを欠いている ・背景には、中国語の文法構造をそのまま輸入してしまったことがある 長井のための日本語矯正塾 >>kanon 379 まず以下の、「ならばお前がやってみろ」という典型的な長井構文を含むやり取りを読んでみてください。 ⸻⸻ ▼長井 “じゃ、お前が正しい日本語を使い、これが本来の正しい書き込みだという例を見せてくれw 私を平伏させるような例文を書いてくれ” ▼反論者 “テメエがひれ伏すかどうかはあくまでテメエの言い値なわけでいくらでも逃げられるわな あと「平伏する」も漢字だから意味は通じるが日本人から見ると不自然だぜ” ▼長井 “「平伏」に食ってかかること自体、日本人どころか、お前自身帰化を目指して日本語を学ぶ半島出身の日系韓国人じゃないのかな? ハングル文化から漢字圏に来ると、ハングルの簡便さが良く思えて仕方ないから食ってかかるんだ。 簡便な「ひれ伏す」がいいんだと叫ぶ。つまり嫉妬w” ⸻⸻ さて、「ひれ伏す」と「平伏する」、どちらが自然な日本語か? 結論から言えば、「ひれ伏す」の方が圧倒的に自然です。なぜか。 「ひれ伏す」は和語、つまり日本人が昔から使ってきた日本語らしい表現なんですね。 一方の「平伏する」は漢語。書き言葉や儀礼的な文脈では使われるけど、日常会話やネットの書き込みの文体には不自然なんです。 で、そういう指摘に対して「簡単な言葉を好むのは韓国人の嫉妬だ」って長井は返していますが、それ、まったくの論点のすり替えです。 問題は「簡単かどうか」じゃない。 語種(和語・漢語)の使い分けと、文脈との適合性の話なんですよ。 余談ですが、長井が「日系韓国人」の意味を勘違いしている点についてはご愛嬌(笑) それにね、この話にはもう1つ興味深い論点があります。それがこちら。 「縋る → ひれ伏す」への論理の飛躍 長井は「お前は俺に縋ってる。つまり、俺にひれ伏している」って言っています。 一見、筋が通ってるようでしょ? あぼーんレスが増えることを見て「縋る」と言うのもいかがなものかとは思いますけど、そこには目をつぶったとしても、これ実は論理的に破綻しているんです。 何かというと、『後件肯定の誤謬』(Post Hoc Ergo Propter Hoc)。 難しい言い方ですけど、簡単に言えばこうです。 「Aが起きた。Bが起きた。だからAはBの原因だ」って決めつける、根拠の薄い思い込み。 たとえば、「誰かが何かを相談してきた → だから俺にひれ伏している!」 いやいやいや、それは短絡的すぎるでしょって話です。 「縋る」という行動と、「ひれ伏す」という心理状態の間には、論理的飛躍がある。 これを正しく区別して考えられるかどうかで、論理力が試されるんです。 さらに言えば、「平伏する」みたいな不自然な表現を得意げに使ってしまう人ってのは、しばしば「自分は高度な語彙を使っている=優れている」って思い込んでいる傾向があります。 でもそれ、言語学的にも誤りですからね? 実際、中国語や韓国語を母語とする初中級の日本語学習者が、漢語表現に偏りやすいという現象は、学術的にもよく知られています。 最後に、こう締めましょう。 言葉のレベルとは、難しさじゃない。文脈との調和で決まる。 論理の強さとは、攻撃性じゃない。飛躍を避け、つなげ方を考えること。 長井のための日本語矯正塾 >>kanon 381 「狼藉を受けた!」という発言、どう受け取りますか? 相手の意見に対して反論できなかった人が、「お前のは狼藉だ!」「俺は被害者だ!」 こういう風に言ってくること、ありますよね。 一見すると正義感に満ちた反撃に見えるかもしれません。でも、こういう発言をする人の内面、実はものすごく単純です。 これは「論理」で勝てないときに出てくる、典型的な心理的回避行動なんです。 人は、自分が「論理で負けた」ことを認めたくないとき、「道徳」で勝とうとする。 つまり、相手に論理では勝てない。でも負けたくない。 そこでどうするか?「アイツはルールを破った」「マナー違反だ」と、倫理の問題にすり替えるんです。 心理学の言葉で言えば、「認知的不協和の解消」ですね。 自分が「論破された」という現実と、「自分は賢い」という自負がぶつかると、心の中にモヤモヤが生まれます。 そのモヤモヤを解消するために、 「いや、あいつの言い方が悪いだけだ!」 「俺が引いたのは礼儀のためで、負けたわけじゃない!」 …と、自分を正当化するストーリーを作り始めるんです。 そして、そういうときに出てくるのが、古臭い強い言葉、そう、「狼藉」なんです。 「狼藉を受けた」って、日常会話ではほぼ聞きませんよね? 現代日本語では、ほぼ時代劇か歴史小説の中だけの表現です。 それをわざわざ使う理由。それは、「こんな大きな被害を受けたんだ!」と、自分の立場を誇張するためです。 でも、それを言ってる人の心の奥には、「本当は反論できなかった」という悔しさ、そして自分への言い訳が見え隠れしています。 まとめ。 「狼藉を受けた」というのは、論破されたことを正面から受け止められない人が、倫理の土俵に逃げ込んで自己正当化している証拠。 強い言葉に逃げた瞬間、その人はもう「言葉の勝負」から降りている。 つまり、「負けました」と言っているのと同じなんです。 長井のための日本語矯正塾 >>kanon 381 「謝罪すれば、ちょっとは話を聞いてやるつもりになるかもしれない」 見た目はそれっぽいけど、日本語としては非常に不自然な言い回しですね。 ❶態度が定まらない「グラグラ構文」 この文章、何がいけないのかというと、とにかく話し手の立場が定まっていない。 たとえば、「話を聞いてやる」。 これは明らかに上から目線の言い方です。 ところが、そのあとに続くのが、 「つもりになる」→ 気分の話 「かもしれない」→ 推測の話 つまり、「聞くぞ!」という断言から始まっておきながら、最終的には「…かも?」と自己否定に近い曖昧な語尾で終わっている。 これ、例えるならこんな感じです。 「先生、明日絶対やります!やるつもりっす。…たぶん。」 こんな返事をしたら、僕だったら間違いなく言いますよ。 「やるの?やらないの?どっち?」 そう、行動を示唆しておきながら、気分レベルの予測で逃げてるんです。 この文も同じです。 「聞いてやる」→ 態度を見せる 「つもりになるかもしれない」→ 態度を撤回する このグラグラ加減が、日本語としてとても不自然なんですね。 ❷結局、伝えたいことが分からない この文の一番の問題は、伝えたいことが伝わらないという点。 謝れば聞くの? いや、聞かないかもしれないの? そもそもその気があるの? こういう不明瞭な態度表現は、大人の日本語としては信頼されません。 本当に聞く気があるなら、 「謝れば話ぐらいは聞いてやるよ」 「まず謝れ。それから話を聞く」 など、明快に言えばいいんです。 逆に、聞く気がないなら、 「謝ったところで聞く気はないね」 と、言い切った方が潔い。 日本語というのは、特にこういう「他人との駆け引き」の場面では、回りくどさよりも態度の明確さが重視されます。 これ、覚えておいてください。 結論 「謝罪すれば、ちょっとは話を聞いてやるつもりになるかもしれない」 この文が不自然なのは、 ・態度を見せたようで見せていない ・決意を語ったようで語っていない ・上から言ってるようで逃げ腰 つまり、言葉の重みがゼロだからなんです。 言葉っていうのは、自分の思考と覚悟が透けて見えるもの。 曖昧な語尾、責任をぼかした表現は、結果として相手に何も伝わらないんです。 「言うなら言う」「逃げるなら黙る」。 日本語では、このくらいの“態度の潔さ”が大切です! 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾 >>筑波大学 #777777777777 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/student/1736474684/693 ❶ 文構造と意味の矛盾 「自称筑波大学卒の性犯罪者ねこたん蛆」 「天下の筑波大学を自称とはいえ、卒業したとのたまう男が…」 ここが最大の問題点。 まず、「自称」と「卒業したとのたまう」の両立が論理的に破綻してるんです。 ・「自称」と言った時点で、卒業を否定してるはず。 ・しかし次の文で、「卒業した」と明言する人物として扱ってる。 これ、文脈が自己矛盾してるんですね。さらに「とのたまう」という語の使い方も皮肉を込めているようですが、主張自体がぶれていて、説得力に欠けます。 ❷ 冗長な表現と無駄な反復 この文章、同じ情報や言い回しが繰り返されているのも目立ちます。 「筑波大学を自称」 「筑波大学卒業生なら」 「天下の筑波大学」 同じ「筑波大学」というワードを連呼してるけど、内容に新しい情報がない。これは日本語で非常に嫌われる表現パターンです。 加えて、次のような言い回しも不自然。 「この替え歌の作詞」 「この程度の低い替え歌作詞」 「程度の高い気品に満ちた大人の替え歌の作詞」 「替え歌の作詞」という語が名詞化されすぎて不自然。しかも、全く同じ語が繰り返されていて耳障りです。日本語としては、「替え歌を書く」や「こんな替え歌しか作れないのか」といった自然な言い回しを使うべきです。 ❸ 論理の飛躍と中学生的推論 「筑波大卒なら、もっと気品ある替え歌を書くはずだ」 いやいやいや、それ全く論理的じゃないんですよ。 筑波大学を出たからといって、全員が「気品ある替え歌」を書くとは限らない。 そもそも替え歌の「気品」って何? 替え歌って本来ユーモアや皮肉が目的でしょう? こういった主張は、学歴と人格・表現を安易に結びつける論理の飛躍であり、「後件肯定の誤謬」に近い思考ミスです。 ❹ 全体の語調が感情的で説得力を欠く この文章、表現が終始「怒り」や「侮蔑」に引っ張られているんです。 ・「蛆(うじ)」のような侮辱表現 ・「この程度」「気品に満ちた」などの上から目線の断定 ・「〜するよな?」という嘲笑まじりの言い方 これらすべてが、「反論ではなく感情の発散」に読者の印象を引っ張ってしまいます。 こういうのはね、国語の文章じゃないんです。 ただの自己矛盾と、語彙の暴走。 相手を論破したいなら、もっとシンプルに、論理と日本語の基本に立ち返るべきなんです。 中国系の長井(长井)さんのための日本語矯正塾 >>筑波大学 #777777777777 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/student/1736474684/699 「自称金属加工会社経営者だとのたまう韓国系のクソクズ」って、何がどうなってんの? ❶ 「自称」の使い方、わかってますか? まず、「自称」というのは、 「自分でそう言ってるだけ」って意味です。つまり、 ・自称 経営者 ・自称 弁護士 ・自称 天才 このように、名詞にかかる形で使うのが普通なんですね。 ・自称金属加工会社経営者 ここまでは OK です。 ❷ じゃあ、「〜とのたまう」って何? これは本来、【相手が偉そうに言ってる】という皮肉・敬語のパロディなので、 ・「◯◯だと、とのたまってましたよ(笑)」 ・「君みたいなのが天才とのたまうとはねぇ…」 という風に、発話を引用する形で使います。 でも! 「自称」+「とのたまう」は論理破綻。 ・「自称」は本人の自己申告 ・「とのたまう」は他人の発言に対する揶揄的引用 なのに、これをくっつけると、「自称◯◯だとのたまう」 誰が言ったのか、どこからどこまでが引用なのか、完全に不明! ❸ さらに混乱する構造 「自称金属加工会社経営者だとのたまう韓国系のクソクズ」 こうなると、もはや読者には以下のような疑問が渦巻きます。 ・「自称」してるのは誰? ・「とのたまってる」のは誰? ・「韓国系」は「自称」の対象?「のたまう」の主語? 完全に 修飾関係が崩壊 しています。 「私は、自称会社経営者です」って自己紹介する人なんかいる? 自分のことを「私は、会社経営者だとのたまう韓国系のクソクズです」と自称する人なんている? 文章っていうのはね、論理の筋道が命なんです。 read.cgi ver 08.1h [pink] - 2023/09/20 Walang Kapalit ★ | uplift ★ 5ちゃんねる